それは誰の過去か

 ここ二月あまりの「朝の読書」の定番がサルトルの『存在と無』(ちくま学芸文庫)。ちょうど第1巻のなかば、第2部第2章「時間性」を読んでいるところ。
 なにしろ1日あたり10頁も読めればいい方だし、それに土日休店なので、なかなか遅々として進まない。遅々として進まないけれども、このテンポがしだいに躰に馴染んでくる。全3巻を読み終えるのに今年1年はかかる計算だが、ここ当分は続きそう。
 躰には馴染んできたが、頭には馴染まない。訳者あとがきに、緒論があまりに難解と思われたならばただちに本編に入るべし、実例も豊富で「あたかも小説を読むのと同じくらいの興味をそそられる」(箇所もある)だろうと書いてある。
 いま、スタンダールの『赤と黒』と今野敏の『隠蔽捜査』を読んでいる。スタンダール本はやや微妙だが、すくなくとも今野本を読むようには『存在と無』は読めない。
 保坂和志さんがいうように、読んでいる時間の中にしかないのが「小説」だとしたら、『存在と無』を読んでいる20分の朝の時間には、たしかに「小説を読むのと同じ」ものが立ち上がっている。でも、そういうことを「躰に馴染む」と表現したわけだから、やっぱり頭には馴染まない。
 躰に馴染むといえば、「時間性」の章に入ってから、妙に躰がいきいきと反応するようになった。書かれていることが、(頭にではなくて)躰にすっと溶けこんでいく感じがつづいている。だから、毎朝とても気持ちがいい。たとえば、次の一節。


《たとえば、すでに死んだピエールについて、私は「彼は音楽を愛していた」と言うことができる。(略)ピエールは、彼の趣味であったこの趣味と、つねに同時的であった。彼の生ける人格が、この趣味よりあとに生き残っているわけではないし。したがって、この場合、過去であるのは、「音楽を愛するピエール」である。そこで私は、「この過去としてピエールは、誰の過去であるか?」というさっきの問いを立てることができる。それは、単なる存在肯定である一つの普遍的な現在に対してではありえない。したがってそれは、私の現実性の過去である。事実、ピエールは私にとって存在したのであり、私はピエールにとって存在したのである。》(319頁)