文字とシニフィアン

 年明けから、佐々木孝次著『文字と見かけの国――バルトとラカンの「日本」』を読んでいる。
 「記号の国――バルトの「日本」」と「リチュラテール――ラカンの「日本」」の二部構成。この二つの文章を同時並行的に読み進めていって、バルトの部は一気に読み終えることができたけれども、ラカンの部ではたと止まってしまった。
 さくさくと消化できない。立ち止まって、なんどもなんども咀嚼し、嚥下し、また吐き出して、反芻する。そんなことを繰り返しているうち、バルトの部での議論が、まるで判っていなかったことにも思いが及んでくる。
 一冊の書物を読み終えること、決着をつけることに、とても慎重になっている。臆病になっている。書物との外在的な関係を構築するだけでは、満足できなくなっている。
 このところ一月ほど、ずっとその周辺をさまよっている箇所を、抜き書きしてみる。


《相互性の関係がないほど異質な二つの領域の境界は、文字とシニフィアンが接するところでもある。言いかえると、文字という自己同一的なものと、そうでない非―自己同一的なものの境界でもある。文字は書かれた跡として、それ自体で「ある」という自己同一性によって、現実的なものの近くにいるが、いつまでもそこにとどまっているわけではない。それは読まれることによって、象徴的なものの領域に参入してくる。つまり、意味の運動のなかに加わってくる。ただしそれは、そもそも自己を自己とは異なったものにさし出している、非―自己同一的なシニフィアンとしてではなく、書かれた跡として、読まれるべきものとして加わってくる。自己同一的なものは、意味に関わらない。文字は、象徴的なものの領域に参入しても、つねに意味から無意味に向かう運動を支えているのである。》(178頁)


 この文章は、「無意識は、一つのランガージュ(言語活動)として構造化されている」と言われるとき、文字はその言語活動のなかで、どのような位置をあたえられるだろうか、という問いをめぐる議論のなかに出てくる。
 ここでいう「文字」とは、漢字やアルファベットのような体系的な文字のことではなくて、それらが作られるよりもっとずっと前からすでにあった「印し、痕跡、しみ、きず、などといった文字」のこと。
 シニフィアンは、それ自体が関係項の一つであり非―同一的であるという性質から、それと本質を同じくする「象徴界」の近くにある。これに対して文字は、その有形的な物質性によって「現実界」の近くにある。ラカンは、そのような文字の性質から、それを「沿岸的」と形容した。「文字(la lettre)は、まさしく沿岸的(littorale)ではないでしょうか。」
 沿岸的とは、境界領域のことでもある。
 ラカンは、最初の日本旅行を回顧して、「そこで私は沿岸的なものを体験しました」と話している。そのときラカンが体験した「沿岸的なもの」は、とくに中宮寺弥勒菩薩像を前にしたとき強く感じとったものとつながりがあるだろう、と佐々木氏は書いている。
「それは人が象徴的な領域に編入される以前に起こった、母親の身体からの分離によって表現されている根源的な切断のことで、いわば、現実界象徴界を隔てる皮膜のところで、つまり二つの領域の境界において、人が体験する悲しみの表現だった。」
 これに続くのが、先に抜き書きした文章。