注解という仕事

 ちくま学芸文庫から、坂部恵著『かたり 物語の文法』が出た。岩波の『坂部恵集』全5巻には収録されていない。
 原著あとがきの次の一文が、とても気に入った。


《注解という仕事は、今日では(あるいは、今日でも)、ともすれば一段低く見られがちだが、ときにペトルス・ロンバルドゥス命題集注解などという一見さりげなく地味な形で、近世以降のなまじ〈独創的〉な著者たちなど及びもつかぬほどの最良質の創造性(とときに詩情さえも)を発揮することを知っていた西欧中世の多くは無名の注釈者たちや、あるいは、フマニストとしての素養も充分にあり、詩心もあるわが国の中世連歌師たちのすぐれた古歌注釈の仕事などを、むしろ至上の範ともし目標ともしたいとわたくしはかねてから考えてきた。》


 この『かたり』という本そのものが、冒頭に引かれた折口信夫の一文への長い注解ではないかと思う。といっても、まだ最後まで読んでいないので、これは当てにならない。
 ここでふと、柄谷行人の仕事に、「注解という仕事」をめぐるものがあったことを想起する。ネットで検索していて、自分が書いた文章に出くわした。(これはよくあることで、いかに自分が、同じところをぐるぐる徘徊しているかを実感する。)
 『ヒューモアとしての唯物論』の書評のうち、その「さわり」を抜き書きしておく。


「本書でもっとも注目すべきものは、未完の「江戸思想論」もしくは「註釈学的世界」の一部をなす「伊藤仁斎論」ではないかと思う。柄谷氏によると「註釈学」とは哲学批判の異名にほかならないのだが、私は「註釈」とは「単独性」としてあるものをめぐる「コミュニケーション」の異名ではないか、そしてそれは使徒的報道やベンヤミン的「翻訳」の問題ともつながってくるのではないかと考えている。」