『物質と記憶』(第4回)

物質と記憶』の(独り)読書会7週目。
先週に続き第一章四節「イマージュの選択」を精読した。
最初の陶酔を覚えた。この節はここだけ読んでも独立した哲学作品になっている。
冒頭の「神経系は表象をつくり出さない」(衝撃的な仮説!)から末尾の「対象Pのイマージュが形成され知覚されるのは(脳の炭白質においてではなく)まさにPにおいてなのだ」(ほとんど大森荘蔵!)まで、寸分の隙のない論理に導かれていく。
思考(ベルクソンの思考でも私の思考でもない「純粋思考」とでもいうべきもの)が進んでいく。
まだ二度読んだだけだが、読むたびに世界を覆う薄皮がはがれ落ち(けっして隠されていたわけではない)世界の実相が剥き出しにされていく。


冒頭と末尾のこの二つのテーゼをつなぐのが、イマージュと純粋知覚のそれぞれについての二区分と相互の関係をめぐる議論である。
すなわちイマージュ(物質界)には「現存するイマージュ」(あること=客観的実在)と「表象されたイマージュ」(意識的に知覚されてあること)の二つがあって、後者は前者が「減少」したものである。
(つまりこの二つのイマージュには程度の相違があるだけで、本性の相違はない。)
すなわち知覚には「無意識的知覚」(無意識な物質の一点のもつ知覚=万物の可能的知覚)と「意識的知覚」の二つがあって、後者は前者のうちからフィルター(不確定=選択可能性の領域)を通じて浮き上がったものである。
これらは結局同じ一つのことを言っている。物質(イマージュの体系)から「生気を呈するすべての性質」をはぎとると、そこに意識に属する「表象=物質の幽霊」と科学に属する「物質=空間的広がり」(たとえば脳)との二区分が生まれ、いわゆる「心脳問題」(物質である脳からいかにして主観的表象=意識的知覚が生じるのか)が発生する。
ことの発端は物質(イマージュ)を二つに断ち切ったことにある。断ち切ったから、これを「縫い合わせなければならぬ」と錯覚するのだ。

知覚がそこ[脳]から出てくることはありうべくもない。脳は他のイマージュと同じく一個のイマージュであり、大量のイマージュに包まれているわけで、容器から中味が出てくるということは、理屈に合わないからである。(略)意識的知覚と脳の変化は厳密に照応している。したがって、この二項のいわゆる相互依存は、どちらも意志の不確定という第三項の関数であることからくる。(46-47頁)

こんな要約ではとても汲み尽くせない。豊かな哲学的思考の種子が惜しげもなく蒔かれた沃土。
続けて五節「表象と行動の関係」を通読した。
前節を受けて「私たちはこのように事態を考えることによって、たんに常識の素朴な確信に復帰しているにすぎない」。
この節には「伝導体」(51頁)という蠱惑的な語彙が出てくる。
「物質が神経系の協力なしに、感覚器官なしに知覚されうるということも、理論上は考えられぬことはない」(51頁)とか
「内部と外部」の概念は「全体と部分」のそれに帰着するだろう(54頁)といった魅力的な議論が展開されている。来週が待ち遠しい。

     ※
上に引用した「容器と中味」のくだりを読んでいて保坂和志の議論を想起した。
たしか『小説の自由』の中に容器と中味云々という言葉が出てきたように記憶していたのだが、いくら探してもみつからない。
みつからなくてもいい。
意識的知覚と脳の変化、意志の不確定の三項関係は、保坂和志が書いている精神性と物質性とフィクション(第三の領域)の三項関係とほぼ相似形の関係にある。
それは私の脳が勝手にそう思うだけのことにすぎないが、ついでに書いておくと、保坂和志がよく言及するチェホフの「学生」の過去と現在を結びつける鎖の話──「いっぽうの端に触れたら、もういっぽうの端がぴくりとふるえた」──は、ベルクソンがやがて導入する記憶の議論に関係してくる。
過去と現在を結ぶ「鎖」。あるいは、物的知覚物と身体を結ぶ「ロープ」(ウィリアム・ジェイムズ)。


三項関係というとパース。
いま断続的に読み進めている三浦雅士の『出生の秘密』が「六 記号の階梯」を終えてパースとラカンを取り上げた「七 鏡のなかの私」にさしかかったところ。
パースとベルクソンというテーマもとても面白い。
「パース氏の思想はベルクソンとはまったく別の仕方で形成されたのであるが、ふたりの思想は完全に重なり合うものである」(ジェイムズ『純粋経験の哲学』)。
ついでに書いておくと『小説の自由』の「8 私に固有でないものが寄り集まって私になる」に「子どもたちの実父問題」(149頁)という話題が出てくる。

     ※
もう一つついでに書いておくと、茂木健一郎『脳の中の小さな神々』巻末の「特別講義」に「対象─脳内過程─意識(視覚的アウェアネス)」の三項関係が出てくる。
これは脳科学が「見る」という体験を「(外界からの刺激を受けて)神経細胞があるパターンで活動すること自体が脳の中でのさまざまな情報の「表現」であり、そのような「表現」が集まって「見る」という体験ができあがる」(242頁)と説明するときに準拠している枠組みで、茂木健一郎いわく、この方法では「見る」という体験を説明することはできない。
脳科学は外界(対象)からの視覚的刺激と脳内過程(神経細胞の活動)との対応関係を説明するだけで、脳の中で生み出された神経活動の一つ一つが「私」にとってクオリアとして成り立つメカニズム自体を説明するわけではない。
「むずかしい言葉を使えば、私たちが「見る」という体験のなかにとらえている、さまざまな視覚特徴の「同一性」自体を説明するわけではないのである」(244頁)。
これに対して提示されるのが「メタ認知ホムンクルス」のモデルで、それは「「私」の一部である脳の神経活動を、あたかも「外」に出たかのように観察する「メタ認知」のプロセスを通して、あたかもホムンクルスがスクリーンに映った映像を見ているかのような意識体験が生じる」(256頁)というものだ。
このモデルにあっては先の三項関係はいったん「物自体─脳内過程」の二項関係に置き換えられ(ただし「脳内過程」の項は「後頭葉=認識の客体」と「前頭葉=認識の主体」という二項が非分離の状態にあるものとされる)、その後「物自体─脳内過程─小さな神の視点」の三項関係へと修整される。
ここに出てくる「小さな神」(ホムンクルス)という「主観性の枠組みは、脳の前頭葉を中心とする神経細胞のあいだの関係性によって生み出される」(258頁)。

「私」はこの宇宙全体を見渡す「神の視点」はもたないが、自分自身の一部をメタ認知し、自分の脳の中の神経細胞の活動を見渡す「小さな神の視点」はもっている。私たちの意識は、脳の中の神経細胞の活動に対する「小さな神の視点」として成立している。/私たちの脳の中には、小さな神が棲んでいるのである。/これが、私たちの意識の成り立ちを最新の脳科学の知見に基づき考察していったときの、論理的な帰結である。(259頁)

脳の中に棲む小さな神が見ているものは「表象されたイマージュ」である。
それは脳内過程を通じて生み出されたものではなくて、あらかじめ与えられたイマージュ(物質)が神経系の活動を通じて縮減されたものである。
(何のために? 不確定=選択可能性=潜在性の領域を現実化するために、つまり行動のために。)
そう考えることができるならば、そこにはいささかの困難(神秘)もない。
メタ認知ホムンクルス」のモデルが優れているのは、そこに「神」が出てくることだろう。
(それは『小説の自由』最終章に出てくるKつまり樫村晴香の言葉──「神」(284頁)や「リアリティ・宗教性」(304頁)──と響き合っている)。
心脳問題はすぐれて神学の問題である。
そんなことは実はとうの昔から分かっていたことなのである。思わず吠えてしまった。


このあたりのことは次回の「マルジナリア」で取り上げよう。
ホムンクルスが脳の前頭葉を中心とする神経細胞のあいだの関係性によって生み出される、といったくだりは(半分ほど読んで中断したままになっている)木村敏『関係としての自己』につながっているだろう。
もしかすると(これもまた中断したままの)坂部恵『モデルニテ・バロック』とも関係してくるかもしれない。
そもそもの発端であったパースの三項関係については(あまりの面白さゆえ何度試みても最後まで読み通すことができない)ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』や(これもまた中断したままの)ジョゼフ・ブレント『パースの生涯』を参照すべきだろう。
ことのついでに(数年前にメインディッシュともいうべき最後の二章分を残して中断した)大森荘蔵『流れとよどみ』も参照すべきだろう。
忙しいことだ。