『他者の声 実在の声』と『小説の自由』

野矢茂樹『他者の声 実在の声』読了。
読み残していた数篇の文章を読み飛ばした。
哲学系の本でこういう読み方はよくないのかもしれないけれど、よく分からないところや細部の論証にあまり逐一こだわらず、一気に通読してこそ伝わる哲学的問題の感触というものもある。
(もちろん、分からないところに出くわしたら「前後もあわせて繰り返し読む。ときに、ほんとに詰まってしまうこともある。ため息をついて、しばらく別のことをして、でもどこかでそのことを考えていて、また読む、いいでしょ、こんな読書。贅沢だよね」(281-282頁)といわれる読み方もある。
野矢さんにとっての『論理哲学論考』がいまの私にとっては『物質と記憶』で、それはたしかに贅沢な読書体験だ。)
先月読み終えた保坂和志の『小説の自由』とあわせて「書評」を書きMMを発行する予定だったがその気になれず、阪神・横浜戦と『笑の大学』を観て一日をやり過ごした。
(『笑の大学』はラストでこけた。
検閲第一日目から五日目までの単調で退屈な反復が六日目の高揚を生み出し、突然の暗転で一気に超絶的な笑いへの期待が高まるが、七日目の無惨な結末で作品は凡庸のうちに終結する。
検閲官役の役所広司は達者だが、この役はもう少し無骨な味わいの役者が演じる方がよかった。)


せっかくだからどんな「書評」を書くつもりだったか、若干のアイデア(の種)だけでも書き残しておこう。
『他者の声 実在の声』は大森荘蔵の『流れとよどみ』にかかわった編集者に声をかけられて生まれた本だという。
「「考える」ということ」というエッセイ(第3章)に次の文章が出てくる。

なめらかな言語ゲームの遂行において思考を見て取ろうとしたウィトゲンシュタインはまちがっている。われわれは、思考を論じるにあたって、むしろ目を言語ゲームのよどみへと向けねばならないのではないだろうか。(36頁)

この「言語ゲームのよどみ」において聞こえてくるのが──意識の内と外をめぐる哲学的誤謬の「獣道」(28頁)もしくは出口のない「洞窟」(191頁)を抜け出たところにひらかれる──「言語の外」(192頁)から届く野生の他者(「意味の他者」=たとえば哲学者)の声であり実在の声なのである。
「私に意味を与えよ」(44頁)。「さあ、語り出してごらん」(194頁)。
言語の外は語りえない。
しかし語りうる世界(すなわち「論理空間)の内部)は変化する。
この語りの変化のうちに他者の姿は示される。
だから「語りきれぬものは、語り続けねばならない」(118頁)。


ところで『小説の自由』に「文章としてのなめらかさ」(57頁)をめぐる話題が出てくる。
志賀直哉の文章は完成されていて「このまま映像に置き換えられそうな文章だが、しかしこれは逆で、私たち自身がふだん文章を読むように映画を見ているということなのではないか」(53頁,46頁)。
このことは「何かを考えるとき、つまり思考するとき、私たちはほとんどの場合、視覚のように思考を組み立てている。
あるいは、思考をなかば視覚化している」(262頁)のだが、しかし「視覚化した思考でなく本当の思考[「脳の中で遂行される思考」(270頁)]が小説の理解には求められる」(268頁)という後に出てくる主張の伏線になっている(たぶん)。
ここで思い出したことがあるので挿入しておくと、編集者や書評家や評論家が「うまい」とか「心地よい」と褒める「こういう文章[ここで保坂和志が考えた例文は省略]を読める人は精神が眠っているだけだ」、「言葉の内側にこもってただ練り上げていくだけのこういう文章は、別に村上春樹がはじめたというようなことではなくて、日本の近代文学の歴史を通じて流れつづけてきたものではないか」(174頁)と批判されているのも「なめらかな文章」のことなのだろう(たぶん)。
それでは「言語ゲームのよどみ」に相当するものを『小説の自由』に求めることができるのかというと、それはできる。
最終章で延々と引用されるアウグスティヌスの文章、つまり「小説の始源のありよう」(297頁)のうちに示されているものが「よどみ」(=散文性)である。
この「よどみ」は「神」(284頁)や「宗教性」(304頁)につながっていく。
つまり論理空間と同様、小説世界もまた変化していく。
だから「書くことは前に進むことだ」(329頁)。


さて『小説の自由』は「小説をまず書き手の側に取り戻すために」(226頁)書かれた。
しかしこのことと「小説は読んでいる時間の中にしかない」(74頁)という本書の基本テーゼとは一見食い違っている。
小説の「書き手の側」と小説を「読んでいる時間」とは別の次元に属することだからだ。
しかし実はそこに矛盾はない。
なぜなら「小説家はどんな読者よりも注意深く、自分がいま書いている小説を読んでいる」からである。
つまり「小説を書くことは、自分がいま書いている小説を注意深く読むことなのだ」(165頁)。
これに対して「批評家・評論家・書評家は、書くことを前提にして読むから、読者として読んだと言えるかどうか疑わしい」(74頁)。
さらに引用を続けると、「小説は外の何ものによっても根拠づけられることのない、ただ小説自身によってのみ根拠づけられる圧倒的な主語なのだ。/本当の自由とはここにある」(278頁)。
ここまで書かれたらもう言葉がありません。
要は「私を読め、私を現前させよ、私を語るな、私を解釈するな」と保坂和志は言っている。
この本を、というよりこの小説(C:高橋源一郎)を「書評」などするなということだ。
ひたすら読みつづけるか、つまり「現前性の感触」に身体をさらしつづけるか、それとも「この保坂和志という他者の言葉は私(中原)の言葉である」(145頁参照)というところまで引用しつくすか。
その二つしか途はない。


     ※
『他者の声 実在の声』と『小説の自由』についてはまだまだ書いて(引用して)おきたいことがある。ここでは先月書き忘れたことをひとつだけ取りあげる。


「言語は自律している、この洞察が後期ウィトゲンシュタインを導いて行ったのである」(『他者の声 実在の声』30頁)。
こういうフレーズを洒落て気の利いた言い回しか何かのように読み流してはいけない。
ここで言われているのはかなり凄いことなのだ。
言語は脳のはたらきを通じて生み出されたものである。その言語が自律している。脳から離れて自律している。
個体の生理活動や心的活動や心身の履歴から離れて自律している。
言語がそこに(どこに?)あって、自らを組み立て編成している。
だから言葉の「意味」は言語の中にある。
脳のはたらきを通じて意識のうちに立ち上がる、もしくは浮かび上がるものではない。
しかもそれは他と置き換え可能な一つの言語観なのではない。
ウィトゲンシュタインはそのような言語観を抱いたのではなく、生きたのである。
言語が自律した世界を生きたのである。
「あなたは言語とはコレコレだと思っているが、実は言語とはシカジカなのだ」といった知識や信念の話ではないのである。
言語が自律している世界を生きるのは、そんな生やさしいことではないのである。


私のメモはここで終わっている。
その後に「考えているのは私なのか」「それは私の思考なのか」と走り書きが残っている。
この覚書きを書いていた時に立ち上がっていたもの、もしくは浮かび上がっていたもの、つまり現前していたものの感触は今はもう残っていない。
だからここに再現することはできないが、その時書こうと思っていたこと(私の場合それは「考えようとしていたこと」「引用しようと思っていたこと」と同義である)の残骸だけは収集しておくことができる。
いちいち本にあたって確認するのが面倒になったので、以下はほとんどうろ覚え。

残骸の一。
先に「引用問題」に関連して引用した保坂和志の原文は「この新宮一成という他者の言葉は私(保坂)の言葉である」となっている。
これはラカンの「他者の語らい」や「無意識はひとつのランガージュとして構造化されている」といった議論と結びついている。
それはまた『他者の声 実在の声』の「言語の外」から聞こえてくる(他者や実在の)誘惑の声、あるいは『神々の沈黙』のかつて右脳から聞こえてきた神々の声とも結びついている。

残骸の二。
その『神々の沈黙』に「意識は言語に基づいて創造されたアナログ世界」(87頁)であると書いてあった。
『出生の秘密』では、ヒトは言語を獲得して(象徴界に入って)人になるといった趣旨のことを論じている。
この二つの書物をひとまとめにして「書評」を書き、次々回のMMのネタにしよう。