数学と小説

瀬名秀明デカルトの密室』を買った。
パラサイト・イヴ』から10年。あの瀬名秀明が、新たなる「脳と心」の謎に挑む!
三日前このキャッチ・コピーを書店で目にした翌日、飲み会の会場に一番乗りしたけれどまだだれも来ていなくて時間つぶしに店の近くの本屋に出向き買い求めた。
AIものと聞くとグレッグ・ベアの『女王天使』だとかリチャード・パワーズの『ガラテイア2.2』だとかを想起する。
最近読んだ関連作品では山田正紀の『神狩り2 リッパー』も想起する(この作品だけは文体が好みに合わず閉口した)。
旧作『BRAIN VALLEY』(「人類最後の秘境、脳とは何か。日本エンターテインメントの金字塔!」)も近く文庫化されるらしい。
あとがき(謝辞)を見ると「本作を書くことができたのは、私が二○○二年から参加している「けいはんな社会的知能発生学研究会」での有益な議論のおかげである」と書いてある。
昨日、今日と「けいはんなプラザ」で泊まりがけの会議に出席していた。
これもなにかの縁というものだろう。
同研究会編『知能の謎──認知発達ロボティクスの挑戦』が読みかけのままになっている。
あわせて読むべし。


その「けいはんなプラザ」からの帰り、三日前の書店の新刊書コーナーで『デカルトの密室』の横に並んでいたマーカス・デュ・ソートイ『素数の音楽』を買った。
7周年を迎えた新潮クレスト・ブックスの新刊。
これまでに読んだのはベルンハルト・シュリンクの『朗読者』とジョン・L・キャスティの『ケンブリッジクインテット』とアリステア・マクラウドの短編一つだけ(ジュンパ・ラヒリの『停電の夜』は文庫で読んだ)。
このシリーズの造本と装幀はとても気に入っている。
本を読む愉悦、それも上質の文学作品に溺れる快楽がかたちになっている。
保坂和志(『小説の自由』)の言葉を借りれば「読んでいる時間」──「新潮クレスト・ブックス7周年記念ベスト・セレクション」というパンフレットに掲載されていた鼎談での、いしいしんじの言葉を借りれば「読んでいる時間の特別さ」──そのものが凝縮されてかたちになっている。
素数の音楽』は小説だと思って買ったら数学ノンフィクションだった。
素数」と名がつけばなんだって手にしてしまう。
そこに「リーマン」の名が見え隠れしていたら見境なく速攻で買ってしまう。
昨年暮れに衝動で買ったカール・サバーの『リーマン博士の大予想』とあわせて三日くらいかけて玩味できたら最高の休日になるだろう。
望みどおり生まれ変われるとしたら、作曲家か数学者、それも数論で食っていきたい。


     ※
数学といえば、野矢茂樹が『他者の声 実在の声』でその「妖しい魅力」について書いていた。
論理は数学における中心的な能力ではない。なぜか。「思考は本質的に非論理的だ」からである。
数学者にとってもっとも重要な能力は直観力である。

そこ[数学という別世界]で要求されることは、その世界に「住む」ことである。その抽象的な世界を生き生きと感じ取り、そこで手足を伸ばし、その空気を呼吸すること。そのとき、具象の現実世界に対する五官とは別の感覚器官のようなものが育ち、その抽象的な関係と構造の世界を直観することができるようになる。私はけっきょくそこの住人になりそこねたわけだが、数学を好きになり、数学を美しいと感じるようになるということは、けっきょくそういうことだろう。それは論理ではない。むしろ感覚の一種なのである。(264頁)

これはほとんど「読んでいる時間の中にしかない」小説という別世界について書かれた文章そのものだ。
保坂和志は、小説における表現=現前性についてこう書いている(『小説の自由』68-74頁)。
「音楽ではまずメロディが思い浮かぶ」というセンテンスを書くことは、「小説とはまずストーリーである」というセンテンスを書くのと同じくらい、私(保坂)にはありえない。
音楽について書きながら私(保坂)の頭をかすめていたのは音の質感の方で、音楽が表現しているものは、メロディや歌詞(メッセージ)なのではなく、楽器の編成それ自体だ。
特定の楽器編成による一つの曲が演奏されたときに、それによって何かが表現されることになるのではなく、それ自体がすでに表現なのだ(「特定の楽器編成による一つの曲」をたとえばカフカの『城』におきかえれば、ここで言われていることは小説にもそのままあてはまる)。
音楽や美術の場合、現前性をそのまま物質性と言い換えてもまあかまわないぐらいだから、現前性=表現であることが了解しやすいだろうが、小説という文字の表現の場合、すべてがいったん抽象化されて物質性を失っているので、現前性ということが了解されにくくなる。
小説における表現=現前性は、漢字、ひらがな、カタカナといった見た目の印象や韻文における響きなどではなく、文字によって抽象として入力された言葉が読み手の視覚や聴覚を運動させるときにはじめて立ち上がるものだ。

その現前性を持続させて何かを伝えたり考えたり表明したりするのが小説だが、何よりもまず現前していることが小説であって、伝えたり考えたり表明したりする方は小説でなくてもできる。
だから小説は読んでいる時間の中にしかない。音楽は音であり、絵は色と線の集合であって、どちらも言葉とははっきり別の物資だから、みんな音楽や絵を言葉で伝えられないことを了解しているけれど、小説もまた読みながら感覚が運動する現前性なのだから言葉で伝えることはできない。

以上は『小説の自由』前半のキモ「4 表現、現前するもの」からの抜粋だが、中盤のキモ「9 身体と言語、二つの異なる原理」(そこで言われていることは、小説家は身体・言語という二つの異なる原理もしくは身体・言語・記憶という三つの異なる原理にまたがって文章を書いているのだが、やはり小説は「融通のきかない自律性」をもった言語でなく身体、それも「一般化される以前の個人としての身体」が起点となっているといったことで、もちろん保坂和志のくねくねと迂回に迂回を重ねる思考のエッセンスをそんな一言で片づけるわけにはいかないし、読んでいて面白いのはむしろ「2 私の濃度」や「5 私の解体」につながる「8 私に固有でないものが寄り集まって私になる」の方だ)を経て、後半というより本書全体のキモ「13 散文性の極致」になると、保坂和志は「事実/虚構」といった単純な二分法をこえたところで小説が小説として(事実でも虚構でもない第三の領域=フィクションとして)立ち上がる現場を、小説という概念が生まれる以前の場所(アウグスティヌスの『告白』)における「小説の始源のありよう」(297頁)のうちに探っている。
『告白』を注意深く読み進めてきた読者は、ある時間(読書体験)の集積を経て「アウグスティヌスとはこういう人だ」という理解に達する。
その時そこにおいて「まさに小説として一人の人物の立ち上がりが完成したのだ」(335-336頁)。
しかしそこで言われる「アウグスティヌス」という「一人の人物」は物質性ではなく精神性、言い換えれば論理の組み立てや思考の組み立てのことだ。
アウグスティヌスには思考の手順しかない」(336頁)のである。
小説とは「人間が文字という形で書いていくことが世界そのものとどういう関わりがあるのか」という「問い、ないし、問い以前の形のない何かを持ちながら、思考の手順を動員することによって思考を推し進めようとする散文なのではないか」(308頁)というわけだ。


そのような意味での小説(感覚の運動・思考の手順)と数学の違いは、そこに「人物」が登場するかどうかである。
ここにきてようやく先の野矢茂樹の引用につながった。
保坂和志は、小説と『デカメロン』や『カンタベリー物語』との違いのひとつは人物がしっかり描かれているかどうかだと書いている。
そして「人物がしっかり描かれている」というのは、その人物が「書かれていることをフィクション=「記憶するに値する」「忘れることができない」「信じざるをえない」ものとするメカニズムとか媒体になるということ」(297頁)だと書いている。
数学と『デカメロン』とではまるで違うが、野矢茂樹が言うように(文字を使わず思考する)数学者にとって直観力こそがもっとも重要な能力なのだとすると、(文字を使って思考する)小説家にとって大切なのはあくまで「思考の手順」としての文体=散文性で、そこで立ち上がるのが「人物」だ。
「人物が媒介者となって「信じざるをえない」ものとしてのフィクションという次元が完成する」(297頁)。
「「実例を使って考える」のではなく、「実例が考える」、アウグスティヌスはそういう思考法に乗って書いている」(318頁)。


以下は備忘録。
1.頭の中だけで考える作業と文字を使って考える作業の違いについて、『小説の自由』の318頁から319頁にかけて書かれていることは実に面白い。
野矢茂樹は思考とは「雨乞い」のようなものだと書いている(『他者の声 実在の声』257頁)が、これは保坂和志の分類によると頭の中で考える思考のことだ。
2.『小説の自由』の176頁、264頁、335頁に『フェルマーの最終定理』の話題が出てくる。ここのところもなかなか味わい深い。
3.「書くことは前に進むことだ」。『小説の自由』の329頁に出てくるこの言葉(あるいは315頁の議論)は、野矢茂樹のテーゼ「語りえぬものを語りえぬままに立ち上がらせるには、語り続けねばならない」(『他者の声 実在の声』234頁)と響き合っている。