『はじめの哲学』

金森修さんが『ベルクソン』のあとがきに、「僕にとって、哲学書を読むというのは、ある種の生まれ変わり、ある種の若返りを体験することなのだろう」と書いている。
生まれ変わりを体験するとは、いったいどういう体験をすることなのだろう。想像を絶する。
若返りの体験なら、あるていどの推測はできるような気がする。
でも、幼年期はもちろん、少年期の自分に戻るという体験もほんとうはちょっと想像を超えている。
ガキの頃の自分が何を感じ、何を考え、何をどう見、聞いていたか。そんなことはいくらあがいても思い出せない。
バタイユが、「文学とは、ついにふたたび見いだされた少年時のことではなかろうか」(山本功訳『文学と悪』)と書いている。
だとすると、哲学とはついにふたたび見いだされた胎児時、あるいは父母未生已然の生のことなのだろうか。


     ※
三好由起彦さんの『はじめの哲学』を読み終えたのも、ずいぶん前のことだ。
「世界がある」ということの神秘と謎めぐる八つの冒険でつづられた本書は、存在の国の広さの問題から始まる。
やがて議論は、この世界にあるものすべてを説明してくれる「いちばん最初の根っこ」をめぐる冒険へ進み、素粒子を観察する眼をさらに観察する眼、見ることをさらに見ることができるような能力、すなわち意識の問題にたどりつく。
そして、「あるもの」を知るためには「ないもの」のことも知らなければならないが、「ないもの」を知ることなど絶対に不可能であるという矛盾にぶちあたって、存在の国の外部、つまり「死」の問題へと屈折し、「この存在の国の中にあるものすべては、私たちが生きているからこそ、そこにある」という「結論」にいたる。
そして最後の章で、死後の世界の実在をめぐる二つの「真理」の選択の問題が述べられる。
存在の問題にほんとうの答えなどない。なぜなら、ほんとうの答えがみつかった段階で、最初の問題はもはや問題ではなくなってしまうのだから。
なくなってしまった問題に対する答えなど、もう答えではないはずだ。
生まれ変わった時、その人はもはや以前と同じ人ではない。
だとすると、生まれ変わりなどなかったことになる。これと同じ構造だ。
だから、哲学書を読むことの意味は、いやそもそも哲学するということ自体、最初の問題に何度でもたち帰ること以外のなにものでもない。
忘れていたことさえ忘れていた最初の問いにたち帰ること。「クイちゃん」が発する問いに何度でも向き合うこと。


『はじめの哲学』を読みながら、保坂和志の『季節の記憶』と『もうひとつの季節』を想起した。
いずれも、クイちゃんの「哲学的問い」への「僕」(クイちゃんのパパ)の応答をもって小説世界がはじまっていた。
「時間ってどういうの?」から宇宙の問題に話題が広がっていった『季節の記憶』。
『もうひとつの季節』では、クイちゃんがおばあちゃんに「僕」がまだ一歳かそこらの時に猫と一緒に写った写真を見せてもらって、「猫はもう死んじゃった」と聞いて腑に落ちない思いをし、「パパにも赤ちゃんだったときがある」はわかるけれど「この赤ちゃんがパパになった」の方がどうしても納得できないところから小説世界がひらかれていった。
たしか保坂和志さんの本にも挿絵がついていた。挿絵がこれほど強く記憶に残る本はめったにない。
『はじめの哲学』もその希有な例の一つだ。