『ウィトゲンシュタイン──「私」は消去できるか』

序章に『維摩経』第八章、入不二法門品の話題が出てくる。
「さとりの境地(不二の法門)に入るとはいかなることか」。
維摩が発したこの問いをめぐって、三十一人の修行者(菩薩)と文殊師利(マンジュシリー)がそれぞれの自説を展開していく。
いわく、生と滅、幸福と不幸といった二分法的な概念から解放されることが「さとり」である。
いや、そのような二項対立、すなわちPか非Pかという「動」だけではなく、そのどちらでもないという「不動」まで含めて「二」なのであって、だから「不二」とはいっさいをしないこと、すなわち「無作為」なのである。
ここで文殊師利が登場する。「あなたがたの説いたところは、それもすべて二なのである」。
ことばの本質的な働きは「二」(根元的な分割)である。
だから、ことば自体を捨てること、すなわち「無語、無言、無表示」こそが「不二」(分割の未遂行)の境地に入ることだ。
文殊師利はそのように説き、維摩自身の答えを求める。
維摩の一黙、雷のごとし」。
維摩の沈黙の後、文殊師利は「これこそ菩薩が不二にはいることであって、そこには文字もなく、ことばもなく、心がはたらくこともない」と称える。
こうした三段階の議論を紹介した後で、著者は、維摩の沈黙が不二=沈黙の実践(さとりの境地)であったのか、ただの沈黙(呆け)だったのか──言い換えると、「不二」をめぐる言語ゲームの「内」にあって、ことばでは到達不可能な「外」をことばの「内」へと巻き込んで働いているものであったか、それとも言語ゲームに巻き込まれている「外」よりもっと「外」にあるものだったか──は紙一重だと書きそえている。

 
ここには本書の議論のすべてが、あらかじめ入れ子式に反復されている。
論理哲学論考』の独我論をとりあげた第一章では、「いわゆる独我論」の「私」(「世界」を包み込む「私」)と素朴な実在論の「私」(「世界」の中の「私」)の二項対立が、それぞれの「私」を純化していくその極限において反転・一致するダイナミックな思考のプロセスが叙述される。
青色本』等の無主体論と呼ばれる考察を論じた第二章では、直接経験・意識状態・心的体験等を非人称的で無主体のものと考える「いわゆる無主体論」と、それらが「超一人称的」「一人称以上に私的」であるからこそ無主体なのだと考える「ウィトゲンシュタインの無主体論」(言語内的な無主体論)が比較され、後者における最強度の「私」が「私」の無化と接していること、すなわち「独我」と「無我」の一致へと至る「類比的な移行(家族的類似)」のメカニズムが摘出される。
そして、『哲学探究』の私的言語論を扱う第三章では、「その言語の話し手だけが知りうる直接的で私的な感覚を指し示し、他人には理解できない言語」という想定がはらむディレンマ──それが理解されることによって「われわれの言語」の圏内に回収され、あるいは逆に「われわれの言語」の圏内に位置づけられないならば端的に無意味である──の分析を通じて、「私的言語」「私的なもの」は肯定も否定もできないから端的に「ない」のではなく、肯定も否定もできないまま言語ゲームに「潜行伴走」し続けること、すなわち「ある」ことと「ない」こと(あるいは「さとり」と「呆け」)とが紙一重である状況(「ない」ままで「あり」続ける「私」)が導出される。
第一の議論がメビウスの帯の構造(裏と表の一致)をかたどっているとしたら、第二の議論はクラインの壺のフォルム(内と外の通底)をまとっている。
第三の議論の論理のかたち(「ある」と「ない」の紙一重の接近)を表現する図形の名は知らない。
たとえば五つの点が相互に等距離に位置する4次元多様体「ペンタヘドロイド」がその候補だが、おそらく次元がもう一段高いのではないかと思う。


ウィトゲンシュタイン=入不二の議論を、いくつかのキーワードを並べるだけで要約し尽くすことなどできない。
実はそれぞれの章が全体の入れ子になっている。
「同じ問題が、形を変えて何度でも変奏される」(68頁)のである。
そして、何度でも同じ問いを問うことそれ自体がウィトゲンシュタインの思考のエッセンスであることを、本書全体が入れ子式に反復している。
ウィトゲンシュタインにとって「思考」は、事実であると同時に超越論的であるという「二重性」をもち、「言語で表現される以前にそれだけで意味をはらむもの」であった(57頁)。
そのような思考を平面的にであれ立体的にであれ図式的に要約して理解することなどできない。
とりわけ後半、一気に加速し、強度を上げ、高密度・高次元の思考不能領域へと突入していく本書を「ことば」でもって理解することはできない。
「遂行的に理解すること」(116頁)。問いを問い続けること。問いを生きること。
本書は、そのようなウィトゲンシュタイン哲学の営みの実相を描写し、かつ「私」の語り方という入不二哲学の出発をなす問題(だと思う)に表現を与えている。


正直言って、私は第三章の議論を「遂行的に理解」することができなかった。
永井均さんの『私・今・そして神──開闢の哲学』を何度読んでも、私的言語論のところが判らなかった。あの時のむず痒さがよみがえる。
書いてあることは理解できる(ような気がする)のに、そこでいったいなにが問題になっているのかが判らない。
ウィトゲンシュタインにしろ入不二基義にしろ永井均にしろ、おそらく「ことば」にするとこのようにしか書けない究極の表現を与えているのだろうとは確信させられる(いずれも、それほどの強度をもった文章である)。
でも結局私には理解できない。理解できないとはどういう事態なのかすら、実は判らない。
おそらくそこに、ある問いが哲学的な問いであることを根拠づける「生の実質」のようなものが介在しているのだろう。
そうした体験を欠いたまま、あるいはよく知っているはずなのに忘れたまま、問題が私の内に接ぎ木されていく。
同じ問題が、形を変えて変奏されていく。
だから本書は、すべての哲学書がそうであるように、何度でも最初から、そして初めて読まれなければならない。