「私的言語」に関する覚え書き

昨日書いたことの補足。
入不二基義さんの『ウィトゲンシュタイン』で、第三章の私的言語をめぐる議論についていけなかったことについて。
要するに、「私的言語」とは何かが腑に落ちていないのだと思う。
哲学探究』をちゃんと読めば判るのかもしれない。
この本はもうずいぶん昔から部屋の本箱の隅に鎮座しているし、何度も拾い読みをした覚えはあるのだが、まともに最初から最後まで読み通したことがない。
読みもしないで「判らない」もあったものではない。
だから、読みもしないで私的言語について思いつきを書くのは噴飯ものだ。
いつか噴飯する日のために書いておく。


呪文と祈りと私的言語の三つ組を考える。
「呪文」は、神社やお寺や教会で「神様仏様どうか」とお願い事をする、いってみれば他人任せの言葉。
これだけ信心を積んだのだからと、それ相応のお返しを期待する。
あてがはずれると「神も仏もない」と拗ねる。
「祈り」はもうちょっと高級、もしくは人品骨柄に気品があって、返礼を求めず、ただひたすら祈る。
祈ることで気分がすっきりする(あきらめがつく)効用があるが、そういう効用を期待してのことではない。
祈る相手は「神様仏様」と手軽にすがられる相手ではない。
絶対に届かないところに、いや届く届かないの議論が無効になるような場所(入不二流の言い方では「ない」よりもっと「ない」ところ)に向かって、祈りの言葉は発せられる。
私的言語は、「光あれ」というと「光」が到来する、そういう言葉のこと。
もっと気の利いた名(たとえば「預言」とか「啓示語」とか「ジョイス語」とか)を与えたいが、にわかに思いつかない。
その卑近な例をあげると、「痛い」という言葉は、「私はいまこれこれしかじかの部位に炎症を起こしている」ことの報告ではなく、言葉が言い表している事態がまさにその言葉を発することにおいて出現している。
「痛い」は痛い。だから「痛い」が本当に痛いかどうか(真実かどうか)を検証することはナンセンスだ。
ウィトゲンシュタイン』では、このことに気づいてウィトゲンシュタインは『論考』の言語観(写像説)をあらためたと書かれていた。うろ覚えで怪しいが。
呪文の双方向、祈りの一方向に対して、私的言語はそういった諸々の「言語ゲーム」が営まれる土俵そのものを創造する。
ふたたび卑近な例をあげる。
心の中で思ったことがそのまま現実になってしまう事態を想定してみる(「心の中で思う」のも言葉なくしてはできないのだから、これも私的言語の一つのバージョンである)。
神の思惟が、現実世界となるような事態。
あるいは、これもまた私には経験がないが、統合失調症の人が妄想に苦しんでいるような事態。
この場合、「心の中で思った」ことを「心の中で思ったこと」と認定するのは、「私はそのように(現にいま世界がそうであるのと同じように)心の中で思った」と述懐する「私」だ。
「そのようなことを心の中で思ってはいけない」と思うのもその同じ「私」だ。
だとすると、「私」が「『そのようなことを心の中で思ってはいけない』と心の中で思った」とき、現実世界はいったいどうなっているのだろう。
いや、そういうことを考えたかったわけではない。
私がここで考えたいのは、「心の中で思った」ことと「現にいま世界がそうである」ことが同時に成り立ってしまうとき、そのような事態を認定する「私」を想定することができるか、というよりはたして意味があるか、ということだった。
入不二氏の議論は、そういうことだったのではないか。
自信はないが、もしそうだったら、「私的言語」の問題は、「私」自身の問題である。