『ベルクソン──人は過去の奴隷なのだろうか』

金森修さんの『ベルクソン──人は過去の奴隷なのだろうか』はずいぶん前に読んだ。
端正な文章で叙述されたベルクソンの「常識離れ」した思考の急所、とくに「重々しい晦渋さ」(76頁)に覆われた『物質と記憶』での「途方もない」(88頁)議論のいくつかを、簡明かつ端的に紹介した好著だった。
しかし、この簡明・端的さが、ベルクソン哲学への入門書としてはともかく、誘惑の書としての力を殺いでいる。
著者は、ベルクソンの「すごさ」についてこう書いている。

…重要で難しい問題について、なにかを考えて判断を下すとき、極端なことをドカッといってのけて、あとは平然としているという人がいる。そんな人は、威勢がいいだけにすごい思想家のように見えるものだけど、実はそれほどでもなくて、必ず一種の留保的な補足をためらいがちに述べておく人の方が、本当はすごいものなんだ。(42頁)

ためらいがちに述べられるベルクソン的世界の「異説」(79頁)は、じっさいにその著書に接し読者の多くが感じたに違いない退屈な常識的議論の果てにさりげなく挿入されたエピソードのようなものである。
それをそれ自体としてとりだしてしまうと、あたかも砂糖水から砂糖を抽出すようなもので、蒸留してウォッカにしあげたり、樹液を濃縮してシロップをつくったりという、具体的で豊穣な「展開」の可能性が失われてしまう。
とはいえ、本書で標本にされた「SF的」なベルクソンの思考のエッセンスは、やはり魅惑的である。
知覚と記憶をめぐる第二章からその一端を、さらに圧縮したかたちで抜き書きしておく。


その1.「〈知覚の場所〉なるものがあるとすれば、それは当の知覚対象がある場所そのものだ」(78頁)
その2.「知覚はもともと非人格的なものとして成立する」(80頁)
その3.「もし君がA岬に行くのがまったくの初めてだったとしても、A岬の記憶心象が君の知覚を記憶で浸してしまう」(82頁参照)
その4.「記憶は脳のなかにはない」(86頁)
その5.「複数の人間たちがかつて知覚したことが、どこかになかば集合的にどんどん記憶としてストックされていく、というような、そんな感じの途方もない存在論が、ベルクソンの頭のどこかにはあったような気がする。」(88頁)


ここに挙げた五つの命題を論証するために、あるいは「本当は最初から知っているはずなのに、忘れてしまっているものをもう一度見出す」(23頁)ために、ベルクソンは7年の歳月をかけて『物質と記憶』を書き上げたのだ、といってもいいだろう。
ほんとうはベルクソンの思考の「エッセンス」をコンパクトに抽出することなどできない。
仮にできたとしてもそんな書物に意味はない。
砂糖が水に溶ける時間のうちにしか哲学的思考の実質はないのであって、できあいの砂糖水をいくら分析してみてもそこに哲学はない。
著者はそのことを十分わきまえた上で、「持続の相のもと」に展開されたベルクソン哲学のランドマークの所在を示したのだろう。