数学の夢

 先日、TVを観ていたら数学者の黒川信重氏が出演していた。なにか別の作業をしながら時折、漫然と画面を眺めていただけなので、内容はほとんど覚えていない。
 黒川氏の同級生で作曲家の倉本裕基氏も出演していたこと、ゼータの不思議な世界が話題になっていたこと、数学の伝道師・桜井進さんがオイラー賛歌を高揚した声と面持ちで朗読していたこと、高木美保がなにか言おうとして仕切り役の渡辺満里奈に遮られていた(ように見えた)こと、そんな断片的な記憶しか残っていない。
 あとで調べると、番組は「たけしの誰でもピカソ」で、「数学でキレイになる!」の第三弾。迂闊なことに、そんな企画が進行していて、それが大好評を博していたとは知らなかった。リーマン予想のことが話題になるTV番組が、それも教養番組ではなく娯楽番組が放映されて、それが大好評を博する。そんな時代がやってきたのだと、信じられない思いが募って、ちゃんと観ておけばよかったと後悔している。
 で、今日、昨年12月に出た黒川信重氏の『オイラー、リーマン、ラマヌジャン』(岩波科学ライブラ リー)を買った。『数学の夢──素数からのひろがり』の改訂版で、この本はここ十年ほど、大げさに言えば「わが心の書」だった。読み始めるとなにも手につかなくなりそうなので、当分は護符のように持ち歩くことになるだろうと思う。
 「時空を超えた数学者の接点」という改訂版の副題にとても刺激を受けたのだが、このことはまた別の機会に──永井均が『西田幾多郎』の冒頭に書いている「哲学を伝えること」、また尼ヶ崎彬がいう「歌の道」にも関連づけて──書くことにして、今日のところは、これまでに『数学の夢』をめぐって書いた文章をひっぱりだしてきて自己引用しておく。


黒川信重『数学の夢 素数からの広がり』【1998/6】
 こういう本を探していた。数式の鑑賞でひとときを過ごした。


黒川信重『数学の夢 素数からのひろがり』【2001/10】
 朝日ワンテーママガジン44『あぶない数学』(1995年1月)に掲載された「ゼータは生きている──類体論から霊体論へ──」を読んで以来、著者のファンになった。本書は3年ぶりの通読。この間なんども手に取り、目に馴染ませてきた。この本を読む(というより、ほとんど毎頁に繰り広げられている数式を鑑賞する)ことは、私のストレス解消法の一つであり長年つきあってきた持病である。
 中田力著『脳の方程式 いち・たす・いち』の44頁と49頁と136頁にオイラー積の話が、そして50頁と138頁にリーマンとゼータ関数の話が出てきて、ゼータ関数が「数論と量子力学とを結ぶ接点として注目されている」などと書いてあったのを読んで、ゼータ狂いが再発してしまった。
 「1+2+3+……=−1/12」とか「1×2×3×…=2πの平方根」といった奇妙な計算には、リーマンの名とともに強烈に惹かれ続けてきた。その証明が高校生向けの本書にきちんと書かれている。それどころか、すべてのゼータを統一して素数全体の空間の真の姿を研究する「絶対数学」の夢と、それがライプニッツモナド(生きている点)や宇宙の解明につながること、そしてこれらの夢が21世紀の中頃には完成するかもしれないことが書かれている。
 オペラ鑑賞と数論(とりわけリーマン予想)の「研究」を老後の楽しみにとっておこうと計画している私にとって、本書は恰好の入門書だ。


☆梅田亨・黒川信重・若山正人・中島さち子『ゼータの世界』【2001/10】
 ゼータ狂いが再発して、急いで『ゼータの世界』(梅田亨・黒川信重・若山正人・中島さち子著,日本評論社:1999.6)を購入して、夢中になって眺めている。この本に収められた7つの文章はほとんど雑誌掲載時に読んだ記憶がある。もちろん中身はほとんど覚えていない。こんどこそ熟読玩味、詳細勉強の上、老後に備えることにしたい。以下、その昔書いた文章を添付。
 ──「ζの世界」の特集を組んだ『数学の楽しみ』創刊号(1997年5月,日本評論社)に、「ζの世界は生物の世界によく似ている」(たぶん黒川信重氏の言葉)とある。そこに多様性と統一があるからというのだ。そういえば、同誌に掲載された「ゼータの世界を眺めて」で中島さち子氏は次のように書いていた。
《数学の真髄にはつねに素朴な人間の感覚があり、それは2000年前,いや人が人になる前から(?)流れている自然なものですが,それはより雄大な,世界を統一する構造理念への準備であったかも分かりません.人が直観している最も原始的な宇宙の関数は何なのか──数学に哲学などの名を付けるのはあまり好きではないのですけれども,もともと文学も医学も生物学も,すべて共存しうるのでしょう.この不確定で混沌に満ちた学問は,ゆっくり,最も原始の世界に同化してゆく感じがします.》
 この実に気持ちのよくなる文章(筆者は現役の高校生なんですね)に出てくる「原始の感覚」とでもいうべきものは、「歴史の概念」について考える際の一つの足場になるはずだ。


黒川信重『数学の夢 素数からのひろがり』【2004/9】
 『世界が変わる現代物理学』に素数という概念が理解できない鼠の話が出てくる。竹内薫はそこで「(素数がマウスの知性の限界を示しているのと同様の意味で)人類の知性に限界があると考えるほうが自然なように思われてなりません」と書いていた(223頁)。
 『脳と仮想』に「私たちが現実と向かい合う時にそこにインターフェイスとして浮上してくる」仮想の「最たるもの」として数学的概念が取り上げられている(98頁)。茂木健一郎はこう書いていた。
《…数学を成り立たせているのは、徹頭徹尾、この世界にはどこにも存在しない仮想である。数学の歴史とは、そのような仮想の間の関係を、論理と整合性を保ちつつ構築することであった。/そのような仮想によって構築された数式の世界に、現実の世界がなぜか従う。このことは、私たちの生が投げ込まれているこの世界の持つ、きわめて不思議な性質の一つであると言わざるを得ないのである。》(102頁)
 これらの話題に触発されて『数学の夢』を手にした。この本に目を通すのはこれで何度目になるだろう。読むたびに新しい発見があり、なにかしらかきたてられるものがある。(今回のそれは、ピタゴラスライプニッツの「絶対数学」における符合ということだった。)
 ところで、竹内・茂木のコンビにはこれまでから共著『トンデモ科学の世界』や共訳『ペンローズの量子脳理論』などを通じて大いに触発されてきた。ペンローズを読んだのもこの二人に導かれてのことだった。数学といえば、ペンローズ。その『心の影』に「プラトン的世界(数学的世界)」と「物理的世界」と「心的世界」のウロボロスの蛇的三つ巴の関係図が出てくる(下巻228頁)。茂木氏は『脳と仮想』で、「プラトン的世界」は数学的秩序に限られていたわけではないと書いている。
《…およそ、私たちが意識の中で思い浮かべることができるものはすべてクオリアであるという現代の脳科学の出発点に立てば、それが数学的な概念であれ、美や道徳といった一見曖昧な印象を与える概念であれ、すべて、この地上の物質的世界とは独立したプラトン的世界に属すると言ってもよい。》(121頁)
 ちなみに、茂木氏の頭のなかでは「現実=物理的世界」「仮想=心の世界」「潜在性=プラトン的世界」の三区分が立てられている。精確にいうと、現実=物自体と仮想=(脳内)現象が対峙する世界と潜在性の世界の二区分。そして「クオリア」はこの三つないしは二つの世界にまたがっている。《実際、プラトン的世界の中には、宇宙の歴史の中でまだどこでも現実化していないクオリアが、無限に潜んでいるに違いない。》(122頁)