シネマ2

 ジル・ドゥルーズの翻訳本はだいたい揃えている。揃えているだけで、最後まで読み通したのは『アンチ・オイディプス』くらいで、ほとんどが読みかけか手つかずのまま、本棚に常備されている。
 冬弓社の2007年度刊行予定リストに、湯山光俊さんと中山元さんの共著『ドゥルーズのABC』(仮題)があがっている。この企画のことは数年前から耳に(目に)していて、(蓮田攻さんの『よい子の社会主義』とともに)ずっと心待ちにしてきた。この本が出たら、それをきっかけにドゥルーズに没頭してみようかと思っているが、同様の常備本にパースとベンヤミンの翻訳本があって、収拾がつかなくなるかもしれない。
 ドゥルーズ翻訳本コレクションにもいくつか欠落がある。『感覚の論理』や『シネマ2*時間イメージ』も、あわてて買うことはないと、これまで気になりながらも放置していた。昨日の朝日新聞の書評欄に、中条省平さんが『シネマ2*時間イメージ』について書いていた。「映画を論じることが、即、人間精神と世界の深みを潜りぬけることに通じる稀有の書物であり、約20年前に書かれたが、世界が混迷を深めるいま、現代的な意義はかえって増している。」
 これを読んで、とうとう我慢ができなくなった。で、即効で購入し、宇野邦一氏による「訳者あとがき」を読み、目次を眺め、ぱらぱらとページを繰っていて、次の文章を見つけた。「スチレン状の物質」とは何のことか知らないが、そもそもここで何が言われているのか判らないが、こういうドゥルーズ節にはどうしようもなく惹かれる。


《映画においては、「イメージのまわりで、イメージの背後で、そしてイメージの内部でさえ」何事かが起きるにちがいない、とレネはいう。イメージが時間イメージになるときにそれは起きる。世界は記憶になり、脳になり、もろもろの年代あるいは頭葉の重なりになった。そして、脳それ自体は意識になり、諸年代の継続に、つねに新しい頭葉の創造あるいは成長に、スチレン状の物質の再創造になったのである。スクリーンそのものが脳膜であり、そこでは過去と未来、内と外が、定めうる距離もなく、あらゆる固定点からも独立に、じかにむかいあう…。イメージを基本的に性格づけるのはもはや空間と運動ではなく、位相[トポロジー]と時間である。》(173-174頁)