歌の発生と歌の道

 ここ数年、古書店めぐりが面白くなってきた。「ぞっき本」という言葉の正しい意味はいまひとつ明確につかめないのだが、新刊書が刊行と同時に廉価で売られている場合(どういう流通経路で出回るのかは不明)、新品同様の本が古書として売られている場合、店頭で雑多な書物が見切り価格で売られている場合、だいたい以上の三つのケースをひとまとめにした「ぞっき本」あさりがだんだん面白くなってきた。
 稀覯本や初刊本などの値の張る書物には興味がなくて(「蔵書」とか「書物蒐集」といった言葉にはあまり惹かれないし、そもそも潤沢な資金を持ち合わせていない)、安くてちょっと気をひく掘り出し品を見つけることが面白い。では、これまでにどんな戦利品があったのかと問われても、ここで披露できるほどのものは見あたらないので、この話題はここまでにしておく。


 昨日、一昨日と二冊の古本を買い求めた。小泉文夫『音楽の根源にあるもの』(平凡社ライブラリー)と谷川健一『うたと日本人』(講談社現代新書)。いずれも上に書いた志にかなうものではなくて、つまり、手に入れるだけでほぼ所期の目的が達成される類のものではなく、実際に読みたいと思って買ったものだ。
 小泉本はいま手元になくて、先に谷川本を読んでいる。その入り口のあたりで、著者はこう書いている。「私には『古今和歌集』や『新古今和歌集』などの勅撰集に、日本の歌を代表させることを拒みたい気持ちがある」。「歌の本源は無名者が集団の中で口に出してうたう歌であった…。それは後れて発生した宮廷歌人の伝統と別の流れを形成し、民間にながく伝承された」。「私は「うた」の始原を、草も木も石ころも青い水沫[みなわ]も「事問う」時代までさかのぼって考えている」。
 宮廷歌人の歌の流れに強烈な関心を寄せている私としては、アニミズムの時代に歌の「発生」を見ようとする谷川説と紀貫之藤原俊成、定家と続く歌論の世界とを高次元で調停できないかと思っている。今様とモダニズムの不即不離の関係、アニマ(霊魂)と「歌の心」の不可思議な関係、生活者と創作者(職業歌人)の二つの共同体の表裏一体性。
 でも、これはまだ譫言でしかない。とにかく谷川本と尼ヶ崎本(「歌の道の詩学」)をきちんと読み終えてから、あらためて考えてみよう。その時きっと、小泉本が役に立つだろうと見込んでいる。