休日の過ごし方・三題

 今日、未体験の初釜に出かける予定が、お茶の先生のお宅にご不幸ができたので取りやめになり、何の予定もない休日が降って沸いたように訪れた。天気もすこぶるいいことだし、新しく住むことになった街をゆっくりと歩いて見てまわるのも一興かと思った。なにしろ「趣味は?」ときかれたら「散歩と映画」(これに「料理」をくわえれば池波正太郎さんになる)と答えることに決めているくらいなのだから、街の歩き方についてはちょっとうるさいと言われるだけの研鑽を積んでおかないと格好がつかない。
 でも結局、朝起きてだらだらと新聞を読み、郵便物を投函しにでかけ、駅前の本屋で本を買い、珈琲を飲みながらだらだらと読み、公園を歩いて図書館に顔を出し、ホームセンターで買い物をし、パンと珈琲の昼食をとりながら借りてきた本をだらだらと読み、昼下がりに帰宅してパソコンに向かっている。いつもとちっとも変わらない。
 時間がたっぷりあるのだから、一昨日に書いたことの続きを腰をすえて書いてみようかと思ったが、時間ができたらできたでこなしておかないといけない雑用があとにひかえているものだから、今日のところはとりとめもない話題をだらだらと書くことにする(と、いったい誰に対して断っているのだろうか)。


 思いついたので書いておくと、「散歩と映画」というときの「散歩」は、健康のためのウォーキングや山歩きやタウン・ウォッチングのことではなく、本屋や図書館、古書店街、さらに美術館や博物館といった場所を散策(検索)することを言う。
 また「映画」とは、映画を見たり映画の本を読んだりすることだけではなくて、およそ人類の精神的な営みや表現(夢も含めて)の根底にある「映画」的な構造のようなものについて、物的形象(たとえば洞窟壁画)に即して思いをめぐらせることを言うのだが、このことについては中沢新一さんに先を越された。


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 一昨日に書いたことというのは、黒川信重氏が『オイラー、リーマン、ラマヌジャン』のまえがきに「このように,時代も場所も違った3人の数学者に脈々として流れているもの,それがゼータです.ピタゴラスにはじまった「素数解明の夢」が発展し「ゼータ統一の夢」としてオイラー,リーマン,ラマヌジャンへとバトンが受け渡されてきた様子をみてください.それは,さらに「絶対数学の夢」へと向かっています」と書いていることと、尼ヶ崎彬氏が『花鳥の使』のあとがきに「天才は孤独かもしれないが、道の人は孤独ではない。同じ道を行く仲間がいるからである。ただ、この仲間は、必ずしも同じ時間と空間を生きているとは限らない。遠く唐天竺のこともあれば、数百年を距てることもあるだろう。しかし〈道〉という共同体は、時空を超えて成立しているのである」と書いていることとは符合していて、さらにこの「数学者の夢」と「歌の道」が拓く系譜もしくは「共同体」は「仏の道」や「哲学者の道」が拓いていくそれらとも通底していて、そのことを永井均さんの『西田幾多郎』に即して考えてみることが現下の私の関心事であるというものだった。
 で、昨日の朝、その『西田幾多郎』の第一章を精読していくつかメモを作ってみた(実はここ一月ばかり、ほとんど毎週同じ作業を繰り返している)のだが、先に断ったように(誰に?)そのことについてはここでは触れない。だったら書くなよと言われるだろうが(誰に?)、昨日買い求めた本のことを書いておきたかったので、長々しい伏線を張ってみたわけである。


 井筒俊彦著『東洋哲学覚書 意識の形而上学──『大乗起信論』の哲学』(中公文庫)。井筒俊彦の本でこれまで最後まで通して読み得たのは『意識と本質』と『神秘哲学』の二冊くらいで、そのいずれからも強烈な感銘を受けた(後者が若き井筒俊彦による抒情歌集であるとすれば、前者は著者後年の歌論書に相当するとでも言えようか)。池田晶子さんの文庫解説「情熱の形而上学」によると、本書は著者の最後の著作で、以後、唯識、華厳、天台と続き、さらにイスラームプラトニズム、老荘儒教真言の各哲学へと展開される予定であったという。
 この本を買ったのは、たとえば「存在論の立場においては存在(=「有」)の絶対無分節態(=存在的「無」)であったものが、意識論的には、その背後に、それを「無」の原初的境位に把持する寂然不動の意識を想定せざるを得ないことになるのであって、これがいわゆる意識のゼロ・ポイントにほかならない」(67頁)といった記述のうちに、俊成と幾多郎を媒介し、さらに永井哲学の核心を逆照射する確固とした直観のようなものが垣間見えたからだ(と、まだ読んでもいないのに大見得をきってみたところで、われながら説得力はない)。


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 今日、駅前の本屋で買ったのが吉村英夫著『完全版「男はつらいよ」の世界』(集英社文庫)で、これはリーマンや俊成や幾多郎、井筒俊彦永井均とは随分かけ離れている。
 一昨年の夏から毎土曜、NHKのBS2で『男はつらいよ』全48作品が放映されている。たまにこの番組にチャンネルをあわせるのだが、たいがいの作品は一度か二度、見ている。封切り映画館で、旧作を上映している場末の映画館で、ビデオでTVで、それと意識しないまま、結構見ている。昨晩も『寅次郎の縁談』(第46作)を見ていて、これも前に見たことがあると途中で気がついた。
 ヒッチコックの全長編作品をDVDで見る。単身赴任先での夜の無聊をいやすために考案したのはこれだったのだが、最近では、中古ビデオを買い込んでほとんど毎晩『男はつらいよ』を見ている。いま手元に持っているのは、『寅次郎夕焼け小焼け』(第17作)、『寅次郎ハイビスカスの花』(第25作)、『寅次郎恋愛塾』(第35作)、『柴又より愛をこめて』(第36作)、『寅次郎心の旅路』(第41作)の五作で、『ハイビスカス』などは三度見た。いずれ近いうちに全作品を揃えることになりそうだ。
 寅さんと俊成等々がまったく別の世界の事象かというと、かろうじてつながる回路が一つある。といっても、それはたんなる思いつきの域を出ないものなのだが、『男はつらいよ』と『源氏物語』はつながっている。たとえば第42作からはじまる「満男と泉」のシリーズは、いわば宇治十帖に相当する。その証拠に(?)、第41作『寅次郎心の旅路』で御前様が「元々、寅の人生そのものが夢みたいなものですから」と語る。吉村本に、「さくら=藤壺」説というものが紹介されている(34頁)。
 また著者は「シリーズのマンネリズム」がもたらしたプラス面をめぐって、歌舞伎や能や落語、はては「ギリシャ悲劇を筆頭にシェークスピアモリエールチェーホフの上演だって同じだろう」(318頁)と書いている。このあたりの経緯も、『源氏物語』や王朝和歌につながっていくと思う。


《シリーズが洗練されていく過程に、文化芸術が様式化され芸術性を高めていく、要するに人類遺産としての古典となっていく様子が凝縮されているといってよい。四半世紀で磨きに磨かれた。だから初期のごった煮的なものはなくなり、毒もなくなっていった。対立葛藤も非和解的ではない。次のシーンに何が映るかが次第に観客に見えてくるようになった。
 一つの風俗的現象にすぎなかったものが本物の文化として生き残ることは、次から次へと新しい試みをして皮をむいていくことだけではない。あるいは新たなる部分や異質な要素を付け加えていくだけでもない。目新しいものを求めての試行が新しい文化を生む重要な側面であるのは言うまでもないものの、単なる流行的現象を本物の文化に昇華させ結晶させるためには、創造者も享受者もふくめて協同的に磨きぬく試練を経なければならないはずである。本物の文化は人類が長年月にわたって営々と築きあげてきた遺産を継承するところからはじまる。》(318-319頁)


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 最後に、今日、市立図書館で借りてきた本のリストを書いておく。先週借りたもののうち、加藤周一『『日本文学史序説』補講』は拾い読みですませ、丸谷才一後鳥羽院 第二版』は「王朝和歌とモダニズム」が面白かったので継続。


◎佐々木幸綱編『日本的感性と短歌』(短歌と日本人Ⅱ,岩波書店:1999.1)
◎アミール・D・アクゼル『デカルトの暗号手稿』(水谷淳訳,早川書房:2006.9)
吉永良正『『パンセ』数学的思考』(理想の教室,みすず書房:2005.6)