音楽をつくりあげること──『哲人たちはいかにして色欲と闘ってきた

 サイモン・ブラックバーン著『哲人たちはいかにして色欲と闘ってきたのか』(屋代通子訳、築地書館、2011年7月)読了。


「本書は、ニューヨーク公共図書館とオックスフォード大学出版局によるキリスト教「7つの大罪」についての講演企画のうち、『色欲』の翻訳版である。」
 そういう出自ゆえか、この本の著者には「色欲(lust)」を哲学の問題として論じる内的必然性や切迫感が感じられない。
 読み物としては悪くないと思うが、いかにも気の利いた言い回しや素材(引用や話題)の切り出し方がときに鼻につく。邦訳のタイトルが軽いし、内容と合っていない。


 それでも第10章「ホッブスと快感のシンフォニー」(と、これに続く第11章「カントとフロイト」)は面白かった。
 とくに(カントと対照的な)「ホッブスの和合」の話題(性の快感には、他者を喜ばせることから得る喜びや快感という精神の喜びが含まれている云々)を経て、トマス・ネーゲルの引用(相手に感じとられているということが感じとられ、それが感じとられたということがまた感じとられる、そうした相互作用を通じてパートナーがより一層自分のものになっていく云々──『コウモリであるとはどのようなことか』に収められた「性的倒錯」からの引用:邦訳78頁)へとすすむあたり。
 そうして「神との交感や他者との一体感が、なぜエクスタシーになるのか」をホッブス的観点から論じていくところが印象深い。
「これは、すばらしい音楽をつくり上げることと似ている。弦楽四重奏が最終小節に近づいてくると、演奏者たちはたがいの演奏に呼応し合い、ごくごく微妙に調整しながら全体として音楽を奏でる。演奏が終わったとき、一体感をおぼえたとしても不思議はない。」


 圧巻は、ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』「13 ナウシカア」からのエピソードの紹介。
 レオポルト・ブルームとガーディ・マクダウェルが浜辺で目を見交わし、おたがいに相手が興奮していることを感じ取って、自分でクライマックスに達する場面をめぐって、「クリントン元大統領は違うと言うかもしれないが、わたしならばブルームとガーディはこのとき性交していた、と言いたい」。


 我ながら褒めているのか貶しているのかよく判らない。
 恋愛や性愛をめぐる哲学の書、それも古代ギリシャの自然哲学者からレヴィナスラカン等々に至る西欧の系譜にもとづくものだけではなくて、たとえば、永井均の「独在性の〈私〉」を踏まえたもの、あるいは、井筒俊彦がいう「新古今の思想的構造の意味論的研究」を踏まえたもの、そんな書物を読んでみたい。