腐敗しているのは誰なのか──真山仁『コラプティオ』

 真山仁著『コラプティオ』(文藝春秋、2011年7月)読了。


 質の高い政治小説を読みたいと思っていた。
 海堂尊著『ナニワ・モンスター』が期待ハズレ(予告篇としてはそれなりによく出来ていたと思うけれど、本当に読みたいのは本篇)だったので、あまり気を入れすぎないようにして読むことにした。
 さすが真山仁。期待は裏切られなかった。


 この作品は様々な切り口で読むことができる。
 たとえば、天才的政治家・宮藤隼人を中心に相対峙する二人の元同級生、つまり政治学者にして若き官邸スタッフ・白石望と経済部記者・神林裕太が、それぞれ首席秘書官・田坂義崇と社会部の看板記者・東條謙介という手厳しい「師」との軋轢や試練を経て、やがて宮藤を乗り越えていく一種の「成長小説」として。
 本作にもし続篇があるとすれば、それは(田坂によって帝王学をたたきこまれ)宮藤の後継者となった白石と、東條に続く看板記者となった神林との、政治という場面における正義や愛をめぐる確執の物語となっていくだろう。
(「愛」と書いたのはいうまでもなく男女の恋愛・性愛のこと。本書の序章に登場した人物のなかで唯一、テレビ局の政治記者・澤地遼子の物語だけが充分に展開されていない。この女性が続篇では白石と神林に、もしかすると宮藤にまで深くからんでいくのではないかと期待している。)


 白石の政治学者としての専門は「政治への無関心と衆愚政治ポピュリズム)」。これに第四の権力としてのマス・メディアの政治的機能の問題を組みあわせてみる。
 そうすると、カリスマ的政治家の功罪や政治における正義という政治学的論点(独裁者の誕生を阻止するために白石と田坂、神林がとった手段に正義はあるか、彼らの行為こそが民主主義政体における最大の「コラプティオ」すなわち政治的腐敗なのではないか)、そして何よりも現代日本政治の停滞に責任をもつべきは本当は誰なのか(それは政治家自身であり、それ以上にマスメディアであり、そして何よりも国民自身なのではないか)といった問題を鋭く指摘し告発する作品として読むことができる。


 いま二つの切り口をあげた。だが、それらが小説を読む醍醐味へとつながっていくためには、まず宮藤隼人の物語がしっかりと書きこまれていなければならない。
 東北大震災以後の政治のリアリズムに即しながら、政治家・宮藤がなしたことを克明に描き、とりわけ原子力を含めたエネルギー政策やアフリカ外交をめぐる「情報」を豊富に提供すること。
(『ハゲタカ』や『マグマ』の作者ならできる。それも第一級の仕事が。)
 白石と神林の物語に先行して、宮藤の視点に立った物語が必要だったのではないか。続篇ではない前篇が。
 それほどの分量がなければ、ギリシャ悲劇かシェイクスピアに匹敵する「コラプティオ」の悲劇は描ききれなかったのではないかと思う。もっと傑作になったはずなのに惜しい。