哲学を伝えること──永井均の講演(2)
前回、永井均さんの講演を「永井哲学の上演」と書いたことについて。
『なぜ意識は実在しないのか』の「はじめに」に書いてあったこと。
2006年の夏、大阪大学文学部でおこなわれた講演の音声ファイルの入手先を紹介したあとで、「これは、役者がひどく下手くそである点を除けば、本書を「台本」として読まれる方にとって、実演の見本として役立つでしょう。」
(このことは、以前、2007年11月25日に紹介した。)
また、『西田幾多郎』の「はじめに」には、次のように書いてある。
「解説書や入門書に意味があるのは、それがそこで独立に哲学をしている場合だけだと思う。それ以外の仕方で、哲学を伝えることはできないからである。」
記録的豪雨のなか、大阪の中之島で永井均さんは、(何やら書いてあるらしい紙片をときおりのぞきながら)、永井哲学への「入門」もしくは「解説」を実演していた。
それはもう何度も繰り返された哲学議論だったろうし、(ホワイトボードに書かれた図を含めて)、永井均のそれなりに熱心な読者である私には馴染みの深いものだった。
そうであるにもかかわらず、それは、同じことが洗練されて、あるいは手抜きされて再演されたのではない。初めてそこに出現し、私が初めて耳にする哲学思考だった。
そういおうとおもえばいえる事態が、そのときそこに成り立っていた。
実はそこからまったく新しい世界がひらけたのだが、しかしそのことを(そのような新しい現実の「存在」を)言葉で語ることはできない。
いや、語ることはできるのだが、語ったとたん、それはこの、すでに成り立っていた私たちの現実世界のうちに回収されてしまって、初発に語ろうとしたことは語りえない。
そんなメカニズムが働いて、永井哲学の核心は、その場にいた聴衆に、いや、他人のことはよくわからないのでいわないことにして、少なくともこの私には、確かに伝わった。
と同時に、それは、洗練されたかたちであれ、手抜きされたかたちであれ、哲学者本人によって再演された、「永井哲学」というレディメードの哲学思考のうちに回収されていった。
何度でも初めて上演すること=再演されること。
それが、独立に哲学すること(西田哲学から独立して永井さんが哲学することだけでなく、永井哲学から独立して永井さんが哲学することを含めて)の意味であり、哲学を伝えること(永井哲学を永井さんが永井さんに伝えることを含めて)の意味なのかもしれない。
「上演すること=再演されること」の前段を強調すると、あのとき、記録的豪雨のなかで、独立に哲学をしていたのは、永井均という人ではなくて、実はこの私自身だったのかもしれない。
それが、哲学が伝わるということの意味だったのかもしれない。