存在の感じ方、男と女がどのように感じあえるか
昨日の話題、恋愛や性愛をめぐる哲学の書をめぐって。
松岡正剛さんが、千夜千冊の第九百十六夜で、ハイデガーの『存在と時間』という「とてつもなく難解な哲学書を柔らかく」するために、「女の話」をもちだしている。
「およそ世界に存在しないものなんてないはずだ。宇宙も杉も、ライオンも病原菌も、人間も書物もテーブルも、存在しているのは当たり前である。そんなことをわざわざ考えに考えて哲学にするには、世の中の存在というものをいったん否定するか、それとは逆に、まるごと許容する以外はなく、いずれにしても、存在の発現が存在の終焉に触れあいながら存在しているのだということを、自分という存在を賭けて感じる必要がある。
このことを実感できる最も身近なことは、むろん虫や星や音楽に夢中になってもいいのだが、時期によっては男と女がどのように感じあえるかということが、最もセンシティブである。とくに若いあいだは、このことに勝る存在の感じ方はない。それで女の話なのである。いや、男の話でもかまわない。」
松岡正剛さんがいう「女の話」とは、ハンナ・アレントのことだ。
「ハイデガーは自制心の強い男ではあったけれど、アレントの魅力が飛び抜けすぎていた。ハイデガーはアレントを、アレントはハイデガーを求めあった。むろん不倫だった。」
「ハイデガーはアレントにぞっこんになった。その数年後、『存在と時間』の前半部が刊行された。時期からいえば、アレントを貪りながら草稿を書いていたといったほうがいい。」
「ハイデガーがアレントと不倫関係になったことと『存在と時間』が関係ありそうな書きっぷりをしたかもしれないが、まさにその通り。おそらく深い関係がある。互いに濡れながら、互いに哲学したといってよい。そのことを証明する気はないが、そんなことはすぐに見当がつくことだ。最近では、やっと刊行された二人の書簡集がそれを証している。」
「ハイデガーは『存在と時間』を書く前に、すなわちハンナ・アレントと密(蜜?)になっていたころ、『仮面論』『根拠とは何か』を書いて、そこで「世界というものは日常的な現存在が演じている演劇のようなものだ」と指摘していた。」
「ハイデガーの時間とは、刻一刻、生起と消滅を同時化する時間なのである。
ところで、このZeitlichkeitの“Zeitlich”というドイツ語には、そもそもが「はかない」とか「無常の」という意味をもっているということには、もうすこし注目が集まっていい。ぼくは『花鳥風月の科学』(淡交社)では、この“Zeitlich”を、万葉の歌から採って「まにまに」としたものだ。」
「ぼくはハンナ・アレントと燃えつつ綴った『存在と時間』のハイデガーの投企と放下にこそ、あいかわらず関心を寄せている。」
以上、松岡正剛さんがいう「女の話」に関連する箇所を抜き出してみた。
一部関係のないものも含まれているが、それにしても、「アレントを貪りながら草稿を書いていた」とか、「互いに濡れながら、互いに哲学したといってよい」とか、「ハンナ・アレントと燃えつつ綴った」とか、ずいぶん過激な表現がちりばめられている。
近いうちに、『アーレント=ハイデガー往復書簡』を手にとってみようと思った。