古いテクストを新しく読むということ

 井筒俊彦『意識の形而上学』第一部「序」に次の文章が出てくる。


《東洋哲学全体に通底する共時的構造の把握──それが現代に生きる我々にとってどんな意義をもつのであるか、ということについては、私は過去二十年に亙って、機会あるごとに繰り返してきたので、ここでは多くを語らない。要は、古いテクストを新しく読むということだ。「読む」、新しく読む、読みなおす。古いテクストを古いテクストとしてではなく……。
 貴重な文化的遺産として我々に伝えられてきた伝統的思考テクストを、いたずらに過去のものとして神棚の上にかざったっままにしておかないで、積極的にそれらを現代的視座から、全く新しく読みなおすこと。切実な現代思想の要請に応じつつ、古典的テクストの示唆する哲学的思惟の可能性を、創造的、かつ未来志向的、に読み展開させていくこと。》


 こういう言い方そのものは、井筒俊彦でなくても誰にだって口にできるお題目で、ついつい読み飛ばしてしまいがちだ。実地にやってみせてはじめて「古いテクストを新しく読む」ことの意義、つまり「切実な現代思想の要請に応じつつ、古典的テクストの示唆する哲学的思惟の可能性を、創造的、かつ未来志向的、に読み展開させていくこと」の実質があきらかになるのだから、前口上だけでは誰も恐れ入らない。それはもちろんそうなのだが、やっぱり井筒俊彦クラスの思索家が書いた文章の中で目にすると、本編を読む前から、なにかしら深甚なことがそこで語られているように思えてくる。


 尼ヶ崎彬氏が『花鳥の使』に収められた「物狂への道」で、「定家の歌論は、多分、こんな風に語っているのではあるまいか」と書いている。


《「歌の道」が何であるかを知りたければ、父俊成の言ったように歌の姿を見て、自分で悟る他はない。しかし、どうすることが「歌の道」なのかときかれれば、こう答えよう。それは、「ふるきことば」に「新しきこころ」を与えることだ、と。》(『花鳥の使』133頁)


 以下、尼ヶ崎氏は定家の本歌取りの実例をあげて、「ふるきことば」に「新しきこころ」を与えることの実相を論じている。ここにも先の「古いテクストを新しく読む」と同様の事情がうかがえるのであって、「ふるきことば」云々を他ならぬ藤原定家の言葉として耳にするとき(においてのみ)、やはりそこからは何かしら深遠な世界がひらけていくように思えるのである。
 こういう類の言葉を私は「教えの言説」、ひらたく言えば「師の言葉」としてとらえ、そこからひらける言語ゲームもしく共同体の有り様を考察しかけたことがあるのだが、それはともかく、ここでは、井筒俊彦の「師の言葉」に触発されたいくつかの思いつきを記録しておくことにする。


     ※
 その一つは、古典的テクストを読むこと(古いテクストを新しく読むこと)を和歌を詠むこと(「ふるきことば」に「新しきこころ」を与えること)との対比で考え、和歌における本歌取りに相当する「伝統的思考テクスト」の読み方がありうるのではないかというものである。
 話はいきなり飛躍するが、本歌取りに相当する古典の読み方の究極の姿(本家取りとでも言おうか)は、おそらくテクストに封じ込められていた魂のようなものが立ち上がり、それが読み手に乗り移り憑依・増殖する、つまり読み手の「心なき身」に魂が吹き込まれ、新しい語り手、書き手がそこに出現する、といった事態のうちに表現されるものなのではあるまいか。
 これはなにやら預言者もしくは使徒のごときものを思わせる妄想だが、もしそうであるとするならば、そこからは「考えているのはいったい誰なのか」という謎めいた問題がわき上がってくる。というのは、そこに、つまり「古いテクストを新しく読む」ことのうちに立ち上がっているのは、古典的テクストに記された伝統的思考の内容そのものではなくて、むしろそれを思考する主体の方だからである。
 以前(1月12日)引用した尼ヶ崎彬氏の言い方を借用するならば、古典的テクストの読みを通じて伝わるものは「世界の新しい姿ではなく、世界を見る新しい眼でなければならない」からである。


 ここからさらに二つの思いつきが派生する。思いつきというよりは、腰を据えてじっくり考え抜いてみなければならない問題と言うべきで、それらはいずれも思考の内容面にかかわっている。
 第一の問題は、「古いテクストを新しく読む」ことからは実は何も新しい思考は生まれてこないのではないかということであり、これと密接に関連する第二の問題は、哲学的思考の「共時的構造」に対応する伝統的思考の「通時的展開」とは何か、新しい思考が生まれ得ないとして、それではなぜ思想史が必然的に成り立ち得るのかということである。
 これらをひとまとめにして、哲学的思考における「差異と反復」の問題と括っていいかもしれない。「歌の道」においてもこれと同様の問題が生起するように思う(「伝統と創造」)。あるいは、この世界でたった一回だけ生じる(生じた)ことの複数性・反復可能性の問題と表現してもいい。
 ここでも話は突然飛躍するが、この話題は、かのデカルトの第二省察に出てくる「「私はある、私は存在する」というこの命題は、私がこれをいいあらわすたびごとに、あるいは精神によってとらえるたびごとに、必然的に真である」の新解釈(永劫回帰的解釈?)にかかわってくるのではないかと私は考えている。