人間の精神的覚知の深みの直接無媒介な表現

 小学校高学年まで、父親の書道教室で毎週日曜、習字の練習をしていた。
 その記憶とここ数年の和歌への関心から、かなへの興味がしだいに高じ、ある日とうとう筆と半紙を買い、図書館で借りた入門書を手本に書き始めてみたら、気持ちがしずまってとても感じがいい。


 井筒俊彦が『禅仏教の哲学に向けて』に収められた「禅における内部と外部」のなかで「書道は心の絵画である」と書いている(221頁)。
 いわく、書道の対象は生命リズムを欠いた冷たく抽象的な表意文字だが、そこに書家の精神的エネルギーが吹き込まれると、死んだ記号が生き、生命の鼓動を打ち始める、抽象的な記号だった表意文字が、人間の心の外面的顕現に転成する。この内面の外面化のプロセスは東アジアの絵画の典型に認められるものだが、書道の場合ははるかに曖昧ではない形で認められる。
 井筒俊彦の議論は、漢字が垂直、水平、七間、上昇・下降、点といった単独では意味が欠けている一画一画から構成されていることにもとづいている。(かなの場合はどうか。)
 また、「東アジアの芸術と哲学における色彩の排除」(同書所収)には、「書道芸術──すべての東洋芸術の中で最も抽象的で、もっぱら人間の精神的覚知の深みの直接無媒介な表現にのみかかわる」(292頁)と書かれている。


     ※
 もうすこし井筒俊彦『禅仏教の哲学に向けて』からの抜き書きをつづける。


「俳句とは、詩人が感覚的現象の中に見つけ出した輝ける間隙の瞬時的把握を通じて、〈存在〉の超感覚的次元へと向けた束の間の一瞥の詩的表現である」(286頁)。


「超感覚的次元が、〈超えたもの〉が表現を許されるのは、表現されないものを通じてのみである。俳句は、〈自然〉の現象形態を積極的に描くことで、同時に〈存在〉の二つの次元を表現する。それゆえ、非表現によって創造されるべき空白空間は、至高の重要性を持つのである」(同)。


「舞台上で、昇華された動作の不在へと内的エネルギーを極度に凝縮させることで、最も力強い感情の表現を実現できる…役者は身体を動かさない。彼は、〈無時間〉のイメージそのものに結晶しているかのように…内的に、心で舞う。…身体のごくわずかな動きでさえも、水墨画における白紙の表面に置かれた黒い墨の小さな点と同じくらい表現的である」(289頁)。


 これは井筒俊彦の文体ではない(野平宗弘訳)。井筒俊彦の文体ではないのに、紛れもない井筒俊彦の論考の世界がひろがっている。とても新鮮な感覚。