切抜帖──『歌と宗教』から


 鎌田東二著『歌と宗教──歌うこと。そして祈ること』(ポプラ新書)から。「俳句アニミズム論」とその解説。


1)「俳句」とは、「俳諧」である。
2)「俳諧」とは、「俳=人に非ず+諧=皆言う」ワザである。
3)したがって、「俳諧」とは、「写界主義」である。それは、世界の「界面」を「写す」ワザである。
4)それに対して、「短歌」とは、「写心主義」である。それは「心(情)」を「写す」ワザである。
5)この「俳諧」は、「徘徊=吟行」によって支えられる「地面の文学」である。あるいは、「地霊」を呼び出すワザである。
6)その、場ないしアニミズム文学としての「俳諧」は、「脱人間(中心)主義」、「脱主体(個人)主義」を基とする、「汎主体(俳諧=人に非ず・皆言う)主義」である。


《このわが俳諧理論を少し詳しく説明してみよう。
俳諧」とは、その文字を分解すると、「人」に「非ず」、「皆」「言う」という組み合わせとなる。「人に非ず」とは、人に限らず、天地万物が、岩も根も草木も話すということである。したがって、俳諧とは、「万物が歌う世界」を写すことなのだ。それを、「写界主義」と名づけたのだ。そこでは、みんなが歌を歌い合い、聴き合っている。
 松尾芭蕉は、それを俳諧というワザに仕立て上げた立役者だ。
 これに対して、短歌が「写心主義」だというのは、スサノヲの躍動する心「我が心清々し」という「こころ」を移し表現するワザだということだ。それが、「ヤエガッキ〜、ヤエガッキ〜、ヤエガッキ〜、ああうれしい〜な〜!」という喜びの感情を写していく表現だということである。
 すべての物が声を放っている世界を写すのが俳諧で、これに対して短歌は心の世界を写すものとなる。
 その俳諧はまた、「徘徊」すること、つまり「吟行[ぎんこう]」することで支えられる。「吟行」とは、歌いながら行くことである。それは、森羅万象の声を拾い、地霊を呼び出すワザなのだ。
 要するに、「俳諧」とは、「人に非ず=俳」「皆言う=諧」、天地人響応のワザであり、文芸なのだ。そこには、「草木」も「言語(ことと)う」と見てとった、古事記日本書紀延喜式祝詞以来の、あるいはそれ以前のアニミスティックな言霊自然感覚があるのだ。
 短歌がより人間的な側面を持つとするならば、俳諧はより大自然的な物の声を拾っている。その意味で、わたしは古事記以前の、短歌が生まれて来る以前の歌の世界を、もう1度形式化したのが俳諧だととらえているのである。
 そういう意味で、芭蕉の仕事はとても重要なのだ。草木も言問うような世界をもう1度、1つの文学形式、五七五という17文字の最も短い文学形式に様式化し完成させたのだから。
 短歌は31文字だから、およそその半分に縮めた。それでも、短歌よりも古い日本人の言語観、アニミズム的な自然感覚・世界感覚・生命感覚をその中に呼び込んで再生させた。わたしはそんなふうに芭蕉の仕事と業績をとらえている。
 これは、あくまでも、神道ソングライターとしての見方であるが。》(174-175頁)