カラダコトバのOS

 田中泯×松岡正剛『意身伝心――コトバとカラダのお作法』。
 対談の圧巻は田中泯松岡正剛が語る「恋愛観」。二人の関係に嫉妬を感じながら読んでいた。
 このところ松岡正剛に如何わしさ、怪しさを感じなくなりかけていたけれど、やはりこの人は「ホンマモン」だと思った。
 たとえばいま任意に開いた個所で、松岡正剛は、人の書いた文章やコトバを見るとき、それがどんな場面、手つきで使われたかを一緒に見ないとダメだ、一人で本を読んでいるときも、そこに書かれていることの中から場面や手つきを探す、「たとえばマルクスみたいなものを読むときも、マルクス卒業論文として書いた微分論を読みながら発見したことを使う」云々と語っている。
 あ、これは…と思いかけると、すぐ続けて次のように語る。じつに深くて怪しい。どこか如何わしいが深い。


《…踊りの根源に直立二足歩行の時代があったように、言語の歴史にもあるものが先行していたはずで、おそらくはごくわずかなシソーラスだけで何でも表現できる時代があったはずなんです。仮に現代のコトバのボキャブラリーが一〇〇〇くらいだとすると、古代語の世界では一〇くらいのわずかなコトバで、メシも食えるし、お悔やみも言えた。なぜそんなことが可能だったかというと、そこに共有しているカラダコトバのOSのような場面があるからです。そういう共有可能な場面を、谷崎やドストエフスキーの中にも発見する。》(280頁)