古いテクストを新しく読むということ(補遺)

 昨日はいきなり、デカルト省察(「私はある」は私がそれをいいあらわすたびごとに真である)をめぐる「永劫回帰的」新解釈という、特大の場外ファウル(?)を予告してしまった。このことについては、いずれ近いうちに「〈私〉という共同体、哲学を伝えること」といったタイトルで書くことにして(本気で考えているのだと、われながら呆れるが)、今日のところは、昨日書き忘れたことを一つ書いておく。


 和歌における本歌取りと哲学的思索における「本家取り」の違いについて。前者が「ふるきことば」に「新しきこころ」を与えることであるとすれば、後者は「ふるきこころ」を「新しきことば」に与える(祖述する、もしくは同じ思考を何度でもあたかも初めてであるかのごとく最初から思考する、等々)ことなのではないか。
 あるいは、本歌取りの究極のかたちにおいて「こころ」(生の生々しい事実、クオリア)が「ことば」(思考の約束事、観念もしくは論理の体系)のうちに融けこんでいくのだとすれば、「本家取り」の行き着く果ては「ことば」のうちに「こころ」を反復すること(ただし、それは一回限りの事実の反復もしくは唯一の思考主体の複数化といったあり得ない事態をさしている)なのではないか。
 何が言いたいのか、いまだに自分でもよく整理できていないので、ここでは二人の先達の「ふるきことば」をそっくりそのまま引用してお茶を濁すことにする。


《言葉の全てが、ということは、人が物を考える時決して逃れることのできぬ枠組みとしての観念体系も、人が喜怒哀楽を汲み出す〈意味〉も、所詮は人間の仮構にすぎない。こう考えた時、定家は〈言葉〉の呪縛から解放されたのではないだろうか。言葉は自明なものとしてあるのではない。それは既に仮構であり、それ故に、さらなる仮構を許すものである。そして、綿密に組上げられた〈古き詞〉の約束事と類型とは、詠歌を拘束するものというよりはむしろ、その現実離れした仮構性を手段として、思うがままに〈新しい意味〉を創造する道を開くものではないか。
 「詞は古き歌にならひ、心はわが心より思ひょれるや、歌の本意に侍らん」(千五百番歌合)
 定家は、仮構である詩的言語の約束事[コード]を操作して、次々と新しい意味の形をつくり出す。しかし、もうそれは、現実とは少しも対応しない。彼は現実にありうる或る〈型〉を命名することによってではなく、詩的世界の中の〈型〉を操作することによって、新たな仮構を行うだけだからである。例えば、「花」と「紅葉」の語が担う無数の〈型〉の含みを利用して、「花も紅葉もなかりけり」と詠み、「宇治の橋姫」の本歌を利用して「月をかたし」かせたりするのである。
 従来の、現実を〈型〉に凝結させるような詩的言語を一次仮構と呼ぶとすれば、定家の、現実と直接関らず、一次仮構を素材として組立てられた言葉のあり方を、二次仮構と呼んでもいいだろう。それは素材である一次仮構に精通しない者には理解不能な言語(達磨歌)である。またそれは、現実の場を決して凝結させることができないために、折に触れて詠歌されることも殆どない歌である(「彼の卿が秀歌とて人の口にある哥多くもなし」『後鳥羽院御口伝』)。》(尼ヶ崎彬『花鳥の使』140-141頁)


《それなら、解説書や入門書のたぐいは無意味かといえば、そうともいえない。解説書や入門書に意味があるのは、それがそこで独立に哲学をしている場合だけだと思う。それ以外の仕方で、哲学を伝えることはできないからである。
 独立に哲学をしているのだから──驚かれるかもしれないが──本書の内容は、じつは西田幾多郎とは関係ない。正確にいえば、関係なくてもぜんぜんかまわない。いや、ものすごく関係がある。それどころか西田が言わんとしたことは本書で私が言ったようなことで、私は西田よりもうまく言い当てている、という可能性はもちろんある。いや、少なくとも私には西田がそう読めるし、そう読まないとさっぱり意味がわからない。しかし、ほんとうにそうであるかどうかは、私にとってはじつはどうでもいい。西田幾多郎の実態がどうであれ、本書にはそれとは独立の哲学的意義がある。ここで述べられていることは、西田幾多郎という人物名を離れて、名なしで剥き出しの哲学的議論として提示されても、それ自体で意味があると思う。それが、独立に哲学をしているということの意味である。
 独立に哲学をするなら西田はいらないではないかと言われるなら、それはちがう。他人の哲学の解説がそれを使って自分の哲学をすることによってしかできないように、自分の哲学のほうも他人の哲学の力で引っ張ってもらわないと進めないという面があるからだ。私はこれまでに、ウィトゲンシュタインニーチェについても、解説書のようなものを書いたことがあるが、どちらの場合も、彼らに引っ張ってもらいながら、その勢いをかりて自分の哲学を勝手に進めさせてもらった。そして、そういう点で、西田幾多郎の「場所の哲学」は、彼らの哲学に劣らず、素晴らしいものなのである。
 本書を読めば、西田幾多郎をまったく知らない方でも西田哲学の核心へとまっすぐに導かれる、と私は確信するが、それはじつは西田の確信ではなく私(永井)の核心なのかもしれない。それらを区別することは私にはできない。》(永井均西田幾多郎』7-8頁)