古いテクストを新しく読むということ(余禄)

 一昨日に書き残したことを、もう一つだけ書いておく。「古いテクストを新しく読む」ことからは実は新しい思考は生まれてこないのではないか、にもかかわらず思考の「通時的展開」が成り立ちうるとすれば、それはいったいどういうことなのか、という二つの問題にかかわる素材の蒐集として。


 最近出た『BRUTUS』が「脳科学者ならこう言うね!」の特集を組んでいる。表紙にキャラクターになった茂木健一郎のイラストが載っていて、とてもかわいい。マスコット人形にしたら、売れるかもしれない。
 記事の一つに、中沢新一との対談が掲載されている。いろいろと興味深い話題が、対談特有の飛躍と省略と含蓄をもってぽんぽん出てくるので飽きないが、ここでは一点、「起源問題」をめぐる部分を抜き書きする。


【中沢】茂木さん、『現代思想』で郡司ペギオ君たちとの鼎談で「進化的視点を入れないといけない」って。まさにその通りだと思います。今は今を作り出す長いプロセスを見ないと、なんで僕らが今そうしているかということが見えやしないんですよね。
【茂木】起源問題を探るというか、古[いにしえ]にさかのぼる運動のほうが、どうも信用できますね。それが本当の創造性ということとつながっていくんじゃないかなっていう感覚があります。
【中沢】創造は最初のほうが完成形に近いんです。だんだん複雑化してきて、格好よくなってくるんですが、だんだん偽物になってくるんですよ。
【茂木】まさに心の起源問題を追っていったフロイトダーウィンがそうであったように、未来に向かって生み出すというよりも、過去に向かって、それこそ起源を暴くということが……。
【中沢】それが未来なんじゃないでしょうかね。アバンギャルドの概念も、前へ突き進んでいくように見えますが、実際には原点へ戻っていくことなんですから。それは正しいと思いますね。
【茂木】脳のメカニズムとしては、ある種の記憶の整理が起こり、その結果、何かが生成されるわけだけれども、その時のなぜ過去へさかのぼるという形でクオリアが立ち上がるかが、非情に面白い問題なんですよ。
【中沢】人間の言語も記憶もみんなそういう構造で出来ていますよね。逆の方向へ行くんですよ。
【茂木】だから「父母未生以前の本来の面目」という夏目漱石が言われた禅の公案も出てくるわけですね。なんでそういうことが創造性へつながるのかなあ。不思議だなあ。


 過去に向かって起源(未生以前の本来の面目)を追うことが、そのまま未来に向かう創造性へとつながっていくことの不思議さ。起源問題(あるいは「進化的視点」の大事さ)とは時間問題の異称なのかもしれない。たとえば、先日(1月12日)引用した尼ヶ崎彬氏の「出世間の共同体」とは、マクタガートのC系列に属する事柄だったのかもしれない、等々。
 というわけで、現在私が取り組んでいる「作業」は、永井『西田幾多郎』、尼ヶ崎『花鳥の使』、井筒『意識の形而上学』に加えて橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』(集英社新書)の四冊を当面の基本テキストとして進行している。
 そういえば、これと関連する議論が山内志朗さんの『天使の記号学』(「最後に現れるものが、最初にあたかも原因であるかのごとく、いやたぶん実際に原因として存在する」)や、ハンナ・アーレント『過去と未来の間』の冒頭に出てきたはずで、これも確かめておかなければいけない。


 一つ付言しておく。茂木発言に「クオリアが立ち上がる」とある。この「立ち上がる」という語は、保坂和志いうところの「現前性」とかかわってくる。
 古いテクストを新しく読むことを通じて、「ふるきこころ」が「新しきことば」のうちに立ち上がる。ここに立ち上がるのは実は思考内容そのものではなく、むしろ思考主体の方なのではないかと私は考えているのだが、それはともかく、原初の立ち上がり(起源)が何度でも繰り返し反復される。そのそれぞれの「立ち上がり」は一回限りの出来事である(生命がこの地球の歴史の中でたった一度だけ立ち上がったように?)。この複数の「立ち上がり」の間に先後関係や過去・現在・未来の時制をあてはめてみても、一回限りの現前性をとらえることはできない。ここにもまた時間問題が立ち上がっている。


     ※
 「進化的視点を入れないといけない」という茂木発言は、「脳科学の未来」を特集した『現代思想』(2006年10月)の郡司ペギオ−幸夫、池上高志との鼎談「意識とクオリアの解法」の冒頭に出てくる。(この鼎談は、途中まで読んで中断したままになっている。いろんなことが半端なままに放置されている。)


《僕は、最近は特に進化論的視点が大事であると思っていて、その中で、ダーウィンがやったようなタイプのアプローチが重要な意味を持つと思っている。つまり、抽象的なフォルマリズムで一刀両断の下に意識の問題が解決される、という可能性はもちろんあるんだけれども、その一方で、ダーウィンがやったように、「自然誌」という立場から意識の問題を究明する必要があると思っている。つまり、現時点で意識について知られている経験的事実をきちんと押さえ、それらを総合する視点が必要ではないかと考えてる。その上で、ダーウィンが到達した「突然変異」と「自然選択」に相当する、意識の起源を説明する第一原理を提出する必要があるのではないかと考えている。》


 宇宙生成と推論のあり方をパラレルに考えるパースの(ヘーゲルの?)アイデアを踏まえるならば、自然誌として記述される経験的事実を総合する第一原理の生成そのものが宇宙のプロセスのうちに組み込まれていて、それがクオリアであり意識であるといった言い方ができるかもしれない。
 さらに、ここで述べられているのと同じ事態が「ことば」の世界においても成り立っているのかもしれない。定家の歌論における一次仮構が「自然誌」であるとすれば、二次仮構が「第一原理」である、といったかたちで。このあたりのことを腰を据えて考えてみようというのが、現在の私が取り組んでいる「作業」である。──共時的構造(第一原理)と通時的展開(自然誌)。創造と伝統。差異と反復。「こころ」(生の生々しい事実、クオリア)と「ことば」(思考の約束事、観念もしくは論理の体系)。