宗教から芸術へ

 昨日とりあげた中沢・茂木対談で、『芸術人類学』冒頭に掲げられたレヴィ=ストロースの言葉が話題になっていた。


《どこでもいい、人間の歴史から任意の千年、あるいは二千年を取り去っても、人間の本性に関する私たちの知識は減りもせず増えもしない。唯一失われるものがあるとすれば、それはこれらの千年、二千年が生みだした芸術作品だけである。なぜなら、彼らが生みだした作品によってのみ、人間というものは互いに異なっており、さらには存在さえしているのであるから。木の像が木を芽生えさせたように、作品だけが、時間の経過のなかで、人間たちのあいだに、何かがたしかに生起したことの証となってくれるのである。》(クロード・レヴィ=ストロース『みる きく よむ』竹内信夫訳)


 このことに関して、茂木健一郎の問い──「人間は本来もっと潜在的能力に恵まれた存在だとしたら、それに対応させて芸術の振れ幅も広くする必要があるでしょう? その時、何を中心に構想されていくんですか」──に答えて、中沢新一が次のように発言している。


【中沢】無意識に直接触れているものですね。無意識の働きが表面化すると、パラノイアとかそういう精神病理の現象に近づきますが、それにある種のロゴスを入れていくと、芸術作品が立ち上がってくる。人間の心の基盤である無意識を感知させてくれるものが芸術なんじゃないでしょうか。レヴィ=ストロースは、1000年、2000年の歴史を全部取っ払ってみても、人間の本性の理解についてはほとんど損失がないが、その間に作られた芸術作品がもし消えると大きな損失だと語っています。人間の本性である心の広大な大陸を垣間見させてくれるものが芸術作品だからだと言いたかったんだと思います。芸術には巨大な大陸が背後に控えているんだと思いますね。


 レヴィ=ストロースの文章に出てくる「木の像が木を芽生えさせたように」は不思議な表現だ。「最後に現れるものが、最初にあたかも原因であるかのごとく、いやたぶん実際に原因として存在する」(山内志朗)という事態と響きあっているのかもしれない。引用文の前にどこかの部族の神話が紹介されていて、そのことに言及されているだけなのかもしれない。
 無意識の働きに「ある種のロゴスを入れる」ことで芸術作品が「立ち上がってくる」、つまり「無意識を感知させてくれるもの」が芸術なんじゃないかという中沢発言は、「芸術」を「和歌」に置き換え、「無意識の働き」を「こころ」に、「ロゴス」を「ことわり」に置き換えると、貫之・俊成・定家の流れのなかでの歌論につながっていく。
 あるいはまた、無意識の働きが表面化すると精神病理の現象に近づくという発言は、「「歌の道」は、俊成にとっては仏法の「悟り」に通じる道であった。しかし定家にとっては、「物狂ひ」に至る道であったのかもしれない」(『花鳥の使』158-159頁)という尼ヶ崎彬氏の指摘につながっていく。


     ※
 対談の中で、中沢新一は「もう宗教というものはいらない」と語っている。


【中沢】僕は宗教自体に関心があったわけではなく、宗教の中に保存されている人間のとてつもない力を扱う技術の部分に関心がありました。(略)もう宗教というものはいらないと思っています。宗教学をやめちゃおう、宗教はいらないって前面に出すとすると、それはある意味、日本人はこのままでいいじゃないか、ということでもあるんです。
【茂木】要するに国際的な文脈における日本の最大の特徴は無宗教ですよね。
【中沢】ええ。(略)日本は、キリスト教の布教があまりうまくいかなかった数少ない国で、それは、キリスト教が「信仰」を説いたからなんですよ。日本人は「信心」なんです。これは何かの実在性を信ずるということなんです。木の根元に祠があって、そこに行くとなんとなくすがすがしい気持ちになったり、小川のせせらぎを聞いたりすると、心が清められていくようになる、それが信心というもので、そういうものを日本人は大事だと思ってきている。だから宗教がない、それはおおいにけっこうだと思っているんです。
【茂木】正確なマッピングではありませんが、いわゆる本居宣長の「漢心」「大和心」や日本をどう普遍化するかを考えた時に、生命論的、生命哲学的な文脈がいちばんふさわしいなと思っているんです。中沢さんの宗教から芸術へという標榜は、僕が感じていたこととまったく同じ、パラレルですね。
【中沢】同じですよ。茂木さんがクオリアで書いていることは、似ているところがとても多いんですよ。


 中沢発言に出てくる「人間のとてつもない力を扱う技術」は、「力もいれずして天地[あめつち]を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士[もののふ]の心をも慰むるは歌なり」(『古今和歌集』仮名序)とされる「歌」、「ウタは神に訴える言葉が韻律をともなうことによって生まれたものである」(谷川健一『うたと日本人』44頁)といわれるときの「ウタ」という言語技術につながる。
 また「信仰」(宗教教義)と対比される「信心」(霊性感覚)は、「世の中に在る人、ことわざしげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて言ひ出せるなり」(仮名序)にいう「見るもの聞くもの」に、とりわけ「もの」(クオリア)にかかわってくる。
 クオリアという語を目にすると、いつもきまって思い出すことがある。ハイデガーが「フュシス」を「運命のもとにある神々自身」であるとしたこと、ロレンスが古代ギリシャの「神」をめぐって「古代人の意識にとっては、素材、物質、いわゆる実体あるものは、すべて神であった」「これは決して単なる質ではない、儼存する実体であり、殆ど生きものと言っていい」云々と書いていたこと


 茂木発言の「生命論的、生命哲学的な文脈」は、歌の道、仏の道、哲学者の道のあり方に関係してくる。
 生命あるものは生命あるものによってのみ世に生み出される。そのような生命の系譜に相当するものが、「出世間の共同体」においても成り立つ。言葉は言葉によってのみ世に生み出される(後世に伝わる)。しかしその系譜は世間で通用する時間の流れのうちにあるものではなく、それは彼らの言葉が世間の言葉とはそのあり様を異にしていることとパラレルである。