生命・記号・言葉

 昨日とりあげた茂木発言に出てくる「生命論的、生命哲学的な文脈」に関連して、もう一つの中沢新一の発言を、こんどは別の場所から拾っておく。


《無から有への転換がおこって、生命が出現する様子は、記号が生成するプロセスとそっくりです。記号はさきほど述べましたように、表現にむかって垂直に立ち上がってくる力が、現実の世界を構成する平面にぶちあたるときに、発生します。つまりここでも、いわば無から有への転換がおきていると見ることができます。そうしてみますと、生命増殖の現象は、洞窟の壁画に動物のイメージを描くときにおこる記号発生の現象と、まったく同じ構造をもっていることがわかり、似ているもの同士を結びつけるアナロジー能力は、「動物のイメージを描くことが、動物の生命増殖につながる」と思考することになるでしょう。》(「映画としての宗教」,『群像』1月号)


 生命の立ち上がりと物質的イメージ(記号)の立ち上がりはパラレルであって、それらの間にアナロジカルな関係が成り立つ。生命は自らの立ち上がりのプロセスそのものを内部に保存し、それを不断に(永劫回帰的に?)かつ物質的に表現することで生命たりうる。記号もまた自らの立ち上がりのプロセスを自らのうちに保存し、諸記号が織りなす平面のうちに不断に(永劫回帰的に?)自らを表現してこそ記号たりうる。ここにもアナロジカルな関係が成り立つ。
 それでは、非イメージ的な象徴力をもった言葉はいかなるプロセスを経て立ち上がり、また生命と記号、自然と仮構とどのような関係をとり結ぶことになるのか。
 生命や記号と同様に、言葉が言葉たりうる根拠のうちに言葉の立ち上がりのプロセスそのもの(起源もしくは開闢)が保存反復されているのだとしたら、そしてロゴス、推論こそ言葉が言葉たりうる根拠であるとしたら、推論のあり方とパラレルな関係をとり結ぶ宇宙生成のプロセス(物質の起源、時空の開闢、クオリア生成のプロセス?)のうちに言葉の起源(言語世界の開闢)を探求することができるのだろうか。
 あるいは、思考主体の立ち上がりにこそ言葉が言葉たりうる根拠があるのだとしたら、より正確には主体や客体等々の「思考の約束事」そのものの立ち上がり(とその永劫回帰的な反復)こそ言葉が言葉たりうる実質であるとするならば、言葉の立ち上がりと「私」(思考主体)の立ち上がりがパラレルで、しかも言葉を使用することを通じて、かつそこにおいてのみ「私」(思考主体)が永劫回帰的に(永劫懐疑的に?)出現する、などということができるのだろうか。
 また、言葉と生命・記号との間には、「メタ・アナロジー」とでも名づけるべき関係が成り立っているのではないだろうか。アナロジーのアナロジー、関係の関係、つまりロゴスの生成? 生命・記号・言葉と現実界想像界象徴界との関係は?


     ※
 いま「言葉を使用することを通じて、かつそこにおいてのみ「私」(思考主体)が立ち上がる」云々と書いたことに関連して、尼ヶ崎彬氏の文章(これはいずれきちんと取り上げたいと思っている)を一つ引用しておく。


《では、定家の「有心体」は、歌人の実体験している心情を詠むものであろうか(それなら紀貫之の歌論と同じになる)。いや、定家の恋の歌の多くが、女性の心を詠んだものであるという一事をとっても、そのようなことはありえない。恋であろうが述懐であろうが、そこに詠まれているのは、実体験としての〈心中の思い〉ではなく、常に虚構の〈心中の思い〉であった。しかもそれは、虚構でありながら、確実に定家の心中にある思いであり、そこから和歌を産出するような「なやませる」過程である。
 つまり「有心体」にいう「心」の所有者は、現実に生活を送っている(生活世界の)歌人その人ではなく、ただ詠作時に、いわば虚像として生ずる「作者」(詩的主観)にすぎない。そして「作者の心」とは、和歌の産出過程においてのみ生じている、虚構の、しかし動的な生命をもって「深くなや」むことのできる「心」である。我々はこのような「心」をとりあえず〈詠みつつある心〉と呼び、「詞」の意味として表現された「歌の心」を〈詠まれた心〉と呼んで区別することにしよう。即ち、「有心体」とは、能産的運動としての〈詠みつつある心〉をもって、所産的内容としての〈詠まれた心〉を産出するような和歌の様式である。
 これを長明の歌論にあてはめれば、「中古の体」とは〈詠まれた心〉を明瞭に表現することを目指すものであり、「幽玄体」とは輪郭も定かでない〈詠みつつある心〉の運動を読者の心中に再現することを目指すものである、と言えるだろう。》(『花鳥の使』153頁)


 ここに出てくる「詠みつつある心」という概念は、どこか加藤典洋が『テクストから遠く離れて』で展開した「脱テクスト論」(テクスト受容空間における実定的な「作者の像」の概念)を思わせるところがある。また、「歌人の心(実体験としての心中の思い)」と「詠みつつある心」と「詠まれた心」という広義の「歌の心」を構成する三つの項が、引用文の最後に出てくる「読者の心」とどのような関係に立つのかも気になるところである。
 気になることは他にもいくつかあるのだが(「詩的主観」に対する「詩的客観」とは何か、等々)、それはともかく、ここで大切なのは「詠みつつある心」が和歌の産出過程において「のみ」立ち上がっているものであること、すなわち、「詞」の意味としての「詠まれた心」を産出する「能動的運動」の相において「のみ」それは立ち上がり、そしてそうであるからこそ、それは虚構世界のうちに「動的な生命」として立ち上がるということである。
 まわりくどい、しかし舌足らずな言い方しか今のところはできないが、ここには記号産出過程と生命産出過程がアナロジカルに重ね描かれている。そして論証抜きに結論めいたことを書き加えるならば、そのような記号−生命産出過程そのものを自らの虚構世界のうちに組み込むことでもって「詠みつつある心」が、とはすなわち言葉(言語世界)そのものが立ち上がり、そしてそれは永劫回帰的な能産的運動を通じて無数の作者と読者(我と汝)を産出しつづける。