映画としての宗教

 『群像』1月号に掲載された「映画としての宗教 第一回 映画と一神教」で、中沢新一は、フォイエルバッハ唯物論的宗教論や旧石器時代の洞窟壁画のイメージ群を素材にして、「あらゆる宗教現象の土台をなしている人類の心の構造というものが、今日私たちが楽しんでいる映画というものをつくりあげている構造と、そっくりだという事実」──「映画は発明される以前から、すでに存在していて、ヒトの心にとって重大な働きをしてきた」「映画が発明される数万年も前に、人類は映画的構造をつうじて、自分の本質をなしている心の本質をのぞき込もうとする実践を始めた」というヒトの心の本質とイメージの運動と宗教の発生に関する考古学的事実──について語っている。以下、手短に要約してみる。


 イメージの興亡もしくはイメージの運動とその構造としての宗教をめぐる「映画的理論」は、次の三つの要素からなる。第一に、フィルムに喩えられるヒトの心。そこには、表現へと向かうヒトの心の深部の構造(記号を生み出そうとする意志のプログラム)がデータとして刻まれている。第二に、このフィルムに記録されたデータを背後から強力に照らし出す光源(ヒトの知性のおおもとをなす流動的知性)。第三に、この光によって心の過程が濃淡変化の像(イメージ)として投影される外部のスクリーン。
 また、イメージには次の三つのタイプがある。第一に、現実世界に対象物をもたない抽象的イメージ。もしくは非物体的かつ唯物論的な直接的イメージ群。それらは内部光学[entoptic]と呼ばれる現象(「無から無へ」向かうイメージの氾濫、素粒子のようにはかない精霊たちの立ち現われ)がヒトの心の内側に開く超越的領域にかかわる。映画の構造として見ると、このレベルのイメージ群は底なしの暗闇に向かって映写される。そこにはスクリーンにあたるものが欠けている。
 第二に、動物やヒトを具体的に描いた具象的イメージ群。ヒトの認知能力を超えた領域に触れている第一イメージ群の「おそるべき力」(ヌーメン)が現実の物質的世界との境界面に触れたときに意味が発生する、その(「無から有へ」向かう)垂直的な運動の過程を保存しようとしているのがこの第二イメージ群である。それは同時に記号的世界の発生をも意味している。これらのイメージは洞窟の壁画をスクリーンとして映写される。
 第三に、垂直的な意味発生のプロセスによってあらわれてきた具象的イメージを(「有から有へ」とメタモルフォーシスをくり返す横滑りの運動によって)水平的に結合し、物語(神話やイデオロギー)を通じてこれを統御するイメージ群。こうして第二群のイメージを組織的に組み合わせた「娯楽映画」が発生する。身体(三次元の動くスクリーン)が演じる儀礼が発生する。
 これら旧石器の洞窟壁画に現われたイメージ群、とりわけ第二群(記号性)と第三群(幻想性)の層に属するイメージに基づいて、新石器の都市世界を中心に豊かな多神教(物質性をまとったイメージ=偶像としての神々)の世界が造形されていく。
 物質イメージの魔力(そして偶像としての神々と結託した王権・帝国、すなわち幻想としての国家の呪縛)からの脱出(エクソダス)をはかったのがモーセの革命である。すなわち非イメージ的なことばの象徴力に基づく一神教(モノティスム)の宗教思想であった。しかしイメージの魔力の上に立つ「メタ・イメージ」の方向に抜け出ようとした一神教は、かえって宗教を巨大な映画館にしてしまい、自らのまわりに物質的な力を呼び集めてしまった(ハリウッド映画はそのカリカチュア)。
 イメージの魔力からのエクソダスには、これとは違う二つの道がある。その一は、イメージの第二群・第三群(観念的イメージ群)の働きを否定し、イメージ作用の第一群(差異の運動がくりひろげられている裸の現実世界、唯物論的イメージ群)の方に向かう唯物論。その二は、ブッダの道。人間の本質である「心」、その「心」の本体である流動的知性の無限の働きにたどりつくこと。身体を使い第一群のイメージの深い淵に踏み込んでいく実践を通して、流動的知性に直接触れていくこと。(要約終わり)


 中沢新一の集中講義はまだ始まったばかりなので、この先どう展開していくかを見ないうちから軽々なことは言えないのだが、「映画の機構」もしくは「映画的構造」に対する中沢新一の立ち位置がいまひとつつかみきれない。
 立ち位置というのは、まず肯定的か否定的かということで、それはそもそも考古学的・人類学的な「事実」なのだから肯定も否定もないとも言える。「映画」と「映画の機構」とは違う、だからたとえばハリウッドの娯楽映画をどう評価するかとか、ヒトが宗教活動を通じて目指してきた探求を現代において引き継ぐ映画作品とはどのようなものなのか、といった議論がここで展開されているわけではないとも言える。
 私がよくつかめないのは、音楽や演劇、舞踏、詩や小説ではなく、なぜ映画なのかということの方であるようだ。視覚的なイメージではなく聴覚的な音もしくは声、あるいは触覚的な感覚、等々、さらには言語技術に着目した宗教理論というものも考えられるのではないか。映画や音楽や詩といった個別のジャンルではなくて、芸術一般に着目した宗教理論というものが。
 いや、イメージを視覚に限定して考えるからそんな愚にもつかない疑問が出てくるのであって、視覚イメージだけでなく、聴覚イメージ、触覚イメージ、等々、さらに運動イメージや時間イメージ、はては意味イメージ──「「真如」とは言うけれども、この特定の語が喚起するような意味イマージュに該当する客観的事態が実在するわけではない」(「言真如亦無有相(真如ト言ウモ亦タ相有ルコト無シ)」(『大乗起信論』)の井筒俊彦訳,『意識の形而上学』29頁)──までをも考えて、それらを総じての「映画理論」なのだ。そう考えることもできる。
 いずれにしても、比較宗教学講義の連載は始まったばかりなのだから、もう少し先を見てから考えることにしよう。ただ、言葉とイメージとの関係だけは気になる。貫之・俊成・定家・心敬・宣長の歌論の流れと仏教思想との関係を探ることで、もう一つの「映画理論」(たとえば、井筒俊彦の「意味分節・即・存在分節」説の向こうをはった言語物質論のごときもの)をしたてあげることができるかもしれないし、そうはうまくいかないかもしれない。