映画としての宗教(続)

 「流動的知性(認知的流動性)」について、念のため「映画としての宗教」(『群像』1月号)から抜き書きしておく。それは、ホモサピエンスネアンデルタールから分かつ「心の革命」によって発生した。


《おそらくニューロンの接合回路が組み替えを起こし、それまでブロックされていた認知領域の間に、横断的な行き来を可能にする組織換えがおきたからだろうと、推測されています。そこから、今日の私たちのものとまったく変わらない、いくつもの特徴ある心の活動がはじまりました。現在地球上で話されている言語の種類はおびただしい数にのぼりますが、そのすべてが同一のモジュールでつくられていることがわかっています。この「ホモサピエンスの言語」では、アナロジー(喩、類比性能)が大きな働きをしています。異なる意味を重ね合わせて、新しい意味をつくりだす働きです。このアナロジーは言語のシンタグマ軸とパラディグマ軸の双方に働いて、メタファーやメトニミーを生みだし、豊かな表現を可能にしましたが、こういうことが起こるためには、心の内部に横断的に働いていく流動的知性が発生していなければならなかったのです。
 それはまた、ホモサピエンスに特有の社会組織も作り出す力をもっています。違うものをまとめて上位のカテゴリーをつくっていく能力から、親族を分類するための呼称の体系がつくられたり、それを用いてまるで代数の問題を解くようにして、結婚のシステムを制御していくやり方などが、発達するようにもなりました。数についての認識も、認知的流動性の働きなしには不可能だったことでしょう。ようするに、今も私たちが何気なく使用している知的な能力のすべてが、旧石器時代に起こった根本的な「心の革命」をきっかけにして、ヒトの心に発生してきたのです(そして、革命はそのとき一回きりで、そのあとは進化も進歩もおこってはいません。旧石器人と現代人の心の構造は、完全に同一なのです)。
 このとき宗教が発生しました。宗教はほかのタイプの心的活動とはちがって、自分たちの心に起こった革命的飛躍そのものに向かおうとしました。ほかのタイプの心の活動では、流動的知性を使って、つぎつぎと新しい開発が進められましたが、宗教は自分たちの内部で活動する流動的知性そのものに照準を定めた、独特の活動を展開したのです。日常的な思考がおこなわれている場面では、流動的知性は表面にはあらわれてこないようになっています。(略)
 つまり、「心の革命」ののち、新しい世界がつくられるようになると、革命の最大原因をつくった流動的知性の活動そのものは、日常性の下に覆い隠されてしまって、意識されなくなってしまいます。
 ところが、この偉大な「革命の原点」にあくまでも踏みとどまり、革命の意義を伝達し続けていこうとする実践が、ホモサピエンスの心のうちには出現したのです。すなわち宗教の出現です。はじめて宗教活動をはじめたヒトは、その「革命の原点」の光景を、映画の機構をつうじて、自分らの眼前に映し出そうとしました。映画が発明される数万年も前に、人類は映画的構造をつうじて、自分の本質をなしている心の本質をのぞき込もうとする実践を始めたのです。》


 これを読みながら、私は、ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』に出てくる「アナログの私」という概念を思い出したりしていたのだが、それはともかく、ヒトの歴史のなかでただ一回だけ起きた根本的な革命(永井均のいう「開闢」?)が「ホモサピエンスの言語」を発生させ、その言語のなかで言語の起源となった「心の革命」と完全に同一な事態が日々、ただし日常性の下に覆い隠されそれとして意識されないままに再現されている(開闢の奇蹟が開闢の内部の一つの存在者として位置づけられている?)。
 たとえば、和歌という言語技術を駆使することでもって、「詠みつつある心」という思考主体が現前する(イメージとして眼前に映し出されるわけではない)、つまり立ち上がるように。あるいは、「「私はある、私は存在する」という命題が、「それをいいあらわすたびごとに、あるいは精神によってとらえるたびごとに、必然的に真である」ように。