2005年に読んだ本(その4)

◎松岡心平『宴の身体──バサラから世阿弥へ』(岩波現代文庫:2004.9)
◎松岡心平『中世芸能を読む』(岩波セミナーブックス:2002.2)
 連歌は「言葉のまわし飲み」であり、連歌が張行される場は「文芸における「一揆」的場」であった(『宴の身体』)。ここで「一揆」は、武装・戦闘集団のことではない。中世的な新しい人間結合のあり方を示す本来の意味、「人々が、一味神水という神前の儀式により一切の社会的関係(有縁)を断ち、なんらかのシンボルのもとに平等の支配する自律的な無縁の共同体を形成すること」をさして使われている。
 また、連歌は和歌の「本歌取り」から生まれた。松岡心平はそこに「役者的想像力」のはたらきを見てとる。本歌取りを支えるのは、虚構の主体に転位し、その身になってその経験の中で歌を詠むという役者的想像力である。この想像力による「古典変形の連続という和歌の詠作法をより集団的に、よりダイナミックに味わえる場が連歌の場」なのであって、「そこでの大きな位相の変化は、連歌が集団的であるということ」だ(『中世芸能を読む』)。


梅原猛『美と宗教の発見──創造的日本文化論』(ちくま学芸文庫:2002.10)
 梅原日本学の原マグマとも言うべき処女論文集。文庫カバー裏にそう書いてある。第一部「文化の問題」に三篇、第二部「美の問題」に四篇、第三部「宗教の問題」に三篇、あわせて十篇の論文が収められている。実に面白く刺激的。なによりも文章に勢いがある。 鈴木大拙和辻哲郎柳宗悦丸山真男といった権威に挑み、否をつきつける気迫がこもっている(第一部)。歌に縫い込まれた感情の襞に分け入り、論理をもってそのエッセンス(感情の論理)を摘出する研ぎ澄まされた感性がきわだっている(第二部)。霊性ならぬアニミズム的生命感覚に裏うちされた日本的宗教心性を鋭い論理の刃でもって腑分けし、しなやかで強靭な感性の投網でもってその実質を掬いあげている(第三部)。


丸谷才一『新々百人一首』上下(新潮文庫:2004.12)
 ほぼ一日一首のペースで読み継ぎ、道半ばにして中断しかけたものの、突如おそわれた歌狂いの風にあおられふたたび繙き、読み始めるととまらなくなり、でも一日にそうたくさん読めるものではなく(読めないことはないがしっくりと心に残らない)、もうすっかり丸谷才一の藝と技のとりこになって、世にいう枕頭の書とはこのような陶酔をもたらしてくれる書物をいうのであろうかと、頁を繰るたびいくどためいきをついたことか。


丸谷才一『綾とりで天の川』(文藝春秋:2005.5)
 文藝という言葉がこの人ほど似つかわしい現役作家、評論家、書評家、エッセイスト、要するに物書きはいないと思う。本書は『オール読物』連載のエッセイを集めたもの。掲載紙のキャラクターに応じて自在に文体を変えながら、その実頑固なまでに文章の骨法を揺るがせない。凛とした姿勢と柔らかな息遣いが素晴らしい。(まことに手放しの絶賛につぐ絶賛でわれながら気持ちがいい。)


加藤典洋『僕が批評家になったわけ』(岩波書店:2005.5)
 批評とは何か。それは日々の生きる体験のなかで自由に、自分の力だけでゼロから考えていくことだ。本を一冊も読んでなくても、百冊読んだ相手とサシで勝負ができること。批評とはそういう言語のゲームなのである。だから、批評はどこにでもある。「あることばを読んで、面白いと感じること。それはそのことばのなかに酵母のように存在している批評の素に感応することなのだ」。こうして著者は批評の原型としての『徒然草』にいきあたる。本書は来るべき批評の酵母の見本帖、すなわち加藤典洋版の「徒然草」である。


石川忠司『現代小説のレッスン』(講談社現代新書:2005.6)
 圧倒的に細部が面白い。村上龍=ガイドの文学とか保坂和志=村の寄り合い小説とか村上春樹ノワールといった作家論も新鮮だが、なにより個々の作品に切り込んでいく批評の切っ先が実にイキがよくて鋭く「ナイス」だ。本書はあくまで「コラム集」なのだ。一瞬の鮮やかな輝きを放って潔く消えていく、そのようなコラムに徹すること。コラムとコラムを(共同性なき共同作業=「物質的コミュニケーション」を介して)一つの結構をもった書物のうちにつないでみせること。それこそが本書の魅力のほとんどすべてなのである。


保坂和志『小説の自由』(新潮社:2005.6)
 『小説の自由』と『カンバセイション・ピース』は姉妹編である。本の造りとデザインがそっくりなのだ。だからというわけではないが、この二冊の書物の読後感(というより読中感)は驚くほど似ている。保坂和志の言葉を借りるならば、それぞれを読んでいる時間の中に立ち上がっているもの、すなわち現前しているものが家族的に類似しているのだ。「私を読め、私を現前させよ、私を語るな、私を解釈するな」。小説家・保坂和志はそう言っている。この本をひたすら読みつづけ、「現前性の感触」に身を浸すか、それとも「この保坂和志という他者の言葉は私(読者)の言葉である」というところまで引用しつくすか。その二つしか途はない。


三浦雅士『出生の秘密』(講談社:2005.8)
 「出生」の秘密には二つの次元がある。その一は未生以前の物質から生命へ、その二は動物としてのヒトから言語を獲得した人間へ。そのそれぞれの界面のうちに「秘密」は潜んでいる。ラカンの概念を使って、前者は現実界から想像界へ、後者は想像界から象徴界へと言い換えることができる。本書を支えている理論的骨格がこの三組みの概念で、パースのイコン・インデックス・シンボルがこれと不即不離の関係でからんでいく。そのもっと奥にあるのがヘーゲルの『精神現象学』。以上が『出生の秘密』のいわば舞台と書き割り。全体のほぼ三分の一の分量を費やした漱石が圧巻。ヘーゲル漱石のあやしい関係を執拗低音とする長い叙述をくぐりぬけ、アウフヘーベンとは「僻み」である、ヘーゲル弁証法は「僻みの弁証法」であると規定する。