「千夜千冊」で「心敬」を検索した

高橋睦郎『読みなおし日本文学史』について、松岡正剛さんは「千夜千冊」第三百四十四夜に書いている。
「日本の文学史はそもそも「歌」を内包した歴史であった…。ここで歌といっているのは和歌から歌物語や能楽をへて俳諧におよんだ文学をさしている。」
「高橋さんは、ひとつの歌、ひとつの三味線、ひとつの踊りに、つねに二つのものが揺れ動くものを見ている。…その二つをきりきりと絞っていくと、それが、とどのつまりは「ますらお」と「みやびお」になるわけなのだ。…実はどんな芸術者の心身のうちにも、この二つに畢竟する何かの二つが揺れ動いているものなのである。高橋睦郎その人の生き方、また、その言葉の世界も、またそういうものである。それが言っておきたかった。」
百人一首ならぬ「千夜千冊」で遊びはじめると時間がいくらあっても足りない。
以下、こころみに「千夜千冊の小窓」から「心敬」を検索した結果を記録しておく。


◎第九夜:丸谷才一『新々百人一首
「ああ、こういう仕事こそ自分もいつかは従事し、ひそかに堪能すべき仕事なのだろうと思った。」
「心敬の有心体からは何かと期待していたら、「世は色におとろへぞゆく天人の愁やくだる秋の夕ぐれ」であった。天人五衰の歌。選者はこの歌を正徹同様に、王朝和歌の弔いの歌として選んだようである。氷の艶はそこまで及んでいたか。」


◎第八十五夜唐木順三『中世の文学』
「この最後の章で、唐木は次の主題を見出している。それは「無用」とは何か、「無常」とは何か、「無為」とは何か、ということだった。とくに連歌師・心敬への注目が、そのことを兆していた。」


◎第二百三十三夜:源了圓『義理と人情』
「義理人情は最初から措定されている心情なのではない。行ったり来たり、濃淡をもって動いている。おそらくは見て見ぬふりをしたいのに、それでも絡みついてくるものなのである。いわば風情の実感なのである。
 そこを、むろんのこと学者は俊成や心敬のようには感覚的には書けないし、日本人である以上はベネディクトのように外からの粗い目でも書けない。ついついパターンにあてはめては、それを微妙に調整するようになる。しかし、そろそろそんなふうな見方だけでは“日本流”の説明は不可能なところにきているとも言わなければならない。固定的にとらえない日本人の心情というものも研究されるべきなのだ。」


◎第三百六十七夜:吉田兼好徒然草
「(言葉のチューインガムのように噛み、味噌汁や山葵醤油を噛んで味わうように読みたい本として)和歌俳諧は断然だが、それは省く。たとえば『伊勢』『枕』『明徳記』『風姿花伝』、心敬の『ささめごと』、『宗長日記』『西鶴織留』『五輪書』『徂徠政談』『茶の本』などがつらつら浮かぶ。素行の『聖教要録』、真淵の『語意書意』、それに兆民の『一年有半』もいいとおもう。いずれも短くて、濃くできている。文庫でいえばそれぞれ150ページをこえないだろう。」


文庫でいえば150ページをこえない本というのはとても魅力的で、そのうちいつか坪内祐三『シブい本』のむこうをはった『ウスい本』をしあげたいものだと密かに目論んでいる。
いま手元にある候補(都合により200ページ前後に拡張)をいくつかあげると、『三浦梅園集』(岩波文庫,148頁)、高木卓『露伴の俳話』(講談社学術文庫,180頁)、幸田文『父・こんなこと』(新潮文庫,193頁)、金子光晴『マレー蘭印紀行』(中公文庫,171頁)、石川淳『夷齋小識』(中公文庫,180頁)、保坂和志『生きる歓び』(新潮文庫,164頁)。


◎第五百二十夜:村井康彦『武家文化と同朋衆
「(同朋衆が登場してきた背景として)第3に、すぐれた批評、すなわち評価をする者たちが主として連歌師から生まれていった。正徹や心敬がその批評を代表するが、兼好法師鴨長明、あるいは貴族や武家にもそのような評価を重視する風潮が生まれてきた。
 ただし、これらの評価者は座の「外」で生まれたのではなかった。座の「中」に生まれたのである。ここが重要である。すなわちかれらは、座を取り仕切る者であって、かつその評価を文化にしていく者たちだった。」


ちなみに「同朋衆が登場してきた背景」の第1は、「座」の社会が用意されていたこと。
第2は、このような座を"サロンあるいはクラブの場"にしながら、そこで「寄合の遊芸」が尊ばれたということ。
第4は、それとともに座のなかで「趣向」を重視する傾向が強くなってきたこと。これが「数寄」の心というものである。
第5は、これらの「座の文化」をまるごとプロデュースし、パトロネージュする者があらわれたこと。


◎第九百七十九夜:中沢新一対称性人類学
「中沢の対称的思考は美しい。それはラカン的な鏡像過程をいかした思考を文体におきかえているからで、まさに『フィロソフィア・ヤポニカ』でいうなら西田幾多郎的ではなく田辺元的であり、フェリックス・ガタリ的ではなく、ジュリア・クリステヴァ的である。建築家でいうのならフランク・ロイド・ライトではなくミース・ファンデル・ローエ風だということになるだろう。
 それだけではなく中沢の倫理思想は「正しさ」を求めているところがあって、バリティ(偶奇性)でいうのなら、いわば「偶」を完成するための思想なのである。連歌師にあてはめれば宗祇に近いというところだろうか。
 これに反してぼくはといえば、「正しさ」に関心はなく、「奇」や「負」の本来こそ凝視したいほうなのだ。ライト的であって、西田的であり、連歌師ならば心敬に近いものがある。それだけでなく社会における人間思考の正当性の根拠律などよりも、人間がついつい逸脱してしまう「ほか」や「べつ」が大切だと思っている。中国水墨山水画の価値観でいうのなら、もともと「神品・妙品・能品」が絶賛されていたのだが、これに南の辺角山水が加わってからは「逸品」が自律してきたような動向にこそ、関心がある。
 さらにいうのなら、「正解」よりもデュシャンの「誤植」のほうが好きなのだ。」


◎第九百九十一夜:松尾芭蕉『おくのほそ道』
「「櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ」は、櫓がきしる音を聞いていると体の奥まで寒さがしみわたるというほどの句意で、そう思えば、「腸氷」や「氷夜」といった造語はどこか心敬をさえ思わせる。」「「野ざらし」とは骸骨である。骸(むくろ)である。「しむ身」は季語「身にしむ」を入れ替えて動かしたもので、それを「心に風のしむ身かな」と詠んで、心敬の「冷え寂び」に一歩近づく風情とした。」


◎第千一夜:ブライアン・グリーン『エレガントな宇宙』
「今夜[千一夜目]は、源氏も心敬も啄木も白秋も一穂も三島も入らないし、デカルトラシーヌもラフォルグもニーチェドゥルーズも残余されたままになる。そのかわりに、今夜はとびきりの宇宙理論についての感想を、思いつくままに書いてみようと思っている。そうすることが、900夜くらいからずっと続いた東西古典回帰と日本イデオロギー議論をめぐる連打が体におぼえこませた残響を、ハウプトマンの沈鐘に変えてくれるだろうからだ。」