『多神教と一神教』『読みなおし日本文学史』

このところ単行本では『西行の風景』と『デカルトの密室』、文庫では『「歌枕」謎ときの旅』と『日本藝能史』と『日本人の身体観』、新書では『読みなおし日本文学史』と『多神教一神教』を日々取り替えながら読んでいる。
その『多神教一神教』に、前二千年紀半ば、楔形文字メソポタミアヒエログリフのエジプトとの狭間に群立する小都市国家においてはじまった「アルファベット運動」(「文字表記を簡素化し数少ない文字種で文章を表現しようという動き」85頁)と「一神教運動」(「神々の吸収合併」87頁)との関係を指摘するくだりがあった。

そこ[カナンの地]には、ヒエログリフ楔形文字を生み出した文明にふれながら、ことさら自分たちの経験と記憶を書き記そうともがく人々がいた。
 多種多様な神々が乱立する世界と多種多様な文字がちりばめられた世界。それらをできるだけ少なくすることに意をもちいる人々がいた。ひしめきあう神々のなかでもわが民の神を至高の存在とする意識と少ない文字種であらゆることを表記しようとする意識とは底流ではつながっているのではないだろうか。一神教運動というべきものがあるとすれば、それはアルファベット運動の精神と共鳴しあうところがあるのではないだろうか。まさしく「初めに言[ことば]があった。言は神と共にあった。言は神であった」(「ヨハネによる福音書」一・1)というわけである。(87頁)

ここを読んでいたく刺激を受けた翌日、『読みなおし日本文学史』の次の箇所に出会って刺激は累乗化された。

わが国には遡って何時と数えることのできない悠久の過去から、歌は口頭で発せられ口承で伝えられてきた。歌は当然、神のものだった。そこに大陸から文字化された詩が、言い換えれば人間の詩が入ってきた。声で発せられる神の歌と文字に書かれた人間の詩とは、第一印象の上ではまるで別のものに感じられたろう。そのうち二つが同質のものらしいと意識されたのちも、歌と詩が同列に置かれることはなかったろう。先進文明の象徴である文字を伴った詩はかつて歌が坐っていた高みに上げられ、歌は時代遅れのものとして見下されていたろう。
 ところが、歌が見直される時が来た。先進文明の官僚制度を徹底させるためには天皇の権威が不可欠になり、天皇の権威を確立するためには外来の人間の詩より土着の神の歌の方が有効だということがわかったのだ。そこで天皇はその祖先を歌を持つ神神に仰ぐことにした。祖先に仰いだ神神に歌がない場合には、他の神神から奪って祖先の神神の歌にした。こうして祖先の神神の歌の力によってこの世の神すなわち現人神となった天皇は、みずから歌を持つとともに他から歌を捧げられた。(51頁)