物の学習と記号の学習

少し考えてみたいことがあるので書いておく。
前田英樹さんの『倫理という力』に、物の学習と記号の学習という対になる言葉が出てきた。
以下は私の勝手な議論なので、前田英樹さんの議論とはほとんど関係ないが、この「物」と「記号」を養老孟司さんがいう「情報」の仲間だとするとどういうことになるか。
「情報」とはスルメやDNAのように停止し止まったもの、動かないもの、変化しないもののことだ。
養老「人間科学」においてこれと対になるのが「システム」で、それはイカや細胞のようにひたすら動いて変化していく。
では、物や記号と対になるもの、スルメに対するイカに相当するものは何かというと、それは物質、生命、精神である。
なにか決まったこと、決着がついたことのように書いたが、これは私がそう考えているだけのこと。
説明抜きの「考え」の羅列をつづけると、生命と物質の界面で立ち上がるものが「物」で、生命と精神の界面で浮かび上がるのが「記号」。
立ち上がるとか浮かび上がるといった言葉の使い分けにはあまり意味はない。
そもそもそういう言葉で表現できることなのかどうかも不分明だが、ほかの言い方や概念が思い浮かばないので仕方がない。
話が複雑になるが、ここで生命というシステムを二つに分類する。集合的生命(種)と個体的生命(個)。
気分としては、前者が物質システムとの界面に、後者が精神システムとの界面により多く分布している。
太極図(白黒の巴がからまりあった円)を想像してもらえればいい。
物質システムと集合的生命(より精密に言うと「集合的生命の濃度が高い生命システム」)との界面に立ち上がる物情報は「食」とか「性」にかかわる呪術性を帯びている。ラカン想像界。あるいは王朝和歌。
個体的生命(「個体的生命の濃度が高い生命システム」)と精神システムとの界面に浮かび上がる記号情報は「名」や「死」にかかわる抽象性を帯びている。ラカン象徴界。あるいはアレゴリー


いったい何を書いているのか自分でもよく分からなくなってきた。
ベルクソンの純粋知覚(物質過程)は物情報に、純粋記憶(精神過程)は記号情報に関係している。
生命システムの二分類は、ベルクソンの進化論や宗教・道徳論に関係している。
というか、そのように関連づけて考えようとしているのだからそれは当たり前のことなのだが、ここで挫けずもう少しがんばってみよう。
物情報の「意味」(アフォーダンス)は物質システムと生命システムの界面に、すなわち「環境」のうちに立ち上がるものであって、その意味を固定する仕組みとして脳が設えるものが時空構造である。
この時空構造を記号情報の局面に、つまり生命システムと精神システムの界面に浮かび上がる記号情報の意味(魂)にあてはめようとすると、そこに様々な形而上学アポリアが発生する。
たとえば、無限に分割できる空間や時間の観念。エレア派のゼノンのパラドクス。


このあたり、養老孟司『日本人の身体観』からの剽窃あり。
古い仏教の身体思想の論理が「自己相似」にあることを論じた「仏教における身体思想」に、ウパニシャッド哲学における絶対者は万有に遍在するというくだりがある。

これはキリスト教の神も同じである。万有に遍在するものとはなにか。私は脳しか認めない。それなら、脳が万有に遍在するとして認めるものはなにか。それは時空である。もっとも経験に明瞭なものは、空間である。空間は万有に遍在するからである。実際、神が遍在するというときには、一つには空間を意味し、もう一つには時間を意味している。神はどこの場所にも、どの時点を区切っても、そこに存在している。それが、「神の内容は時空だ」と私が言うことの意味である。(236頁)

神の概念は時空と結びついてわれわれの脳のなかにある。
時空は「図」に対する「地」としての特徴を備えている。すなわち時空の無境界性と透過性(遍在性)。
「時間も空間も、すべての物事を「通り抜けて」しまう。
われわれの方が両者を通り抜けると感じる人もあろう。どちらにしても、さしたる変わりはない。
われわれの方が時空を通り抜けると感じる人はニュートンの絶対空間に共感し、時空がわれわれを通り抜けると感じるならアインシュタインが定式化した時空にリアリティを感じる。

こうして、時空の観念が強い存在感と結合して、神の観念が生ずる。時空の観念も、存在感も、生物が生きるためには基本的な観念と言わざるをえず、神の観念が人類に普遍的であるのは、そのためであろう。(237-238頁)

ここに出てくる「存在感」は、数学者にとって数学的世界は実在する、哲学者にとっては抽象思考こそ実在する、と言われるときの「実在感」と同義で、世の中に心に対して実在感を持つ人や脳が実在する人(唯脳論者)がいておかしくない。

心や脳の実在感が、心身論の紛糾の背後にあることは、間違いない。私はそう考える。しかし、学問はしばしば普遍性を要求するので、考えているのは本人の脳だということが、伏せられてしまう。こういう問題を議論するときには、正直なところ、理屈はともかく、本人の実在感はどうなのか、という問いを抜きにするわけにはいかない。(「西欧の心身論」295頁)


     ※
どこに行き着くのかほんとうに見えなくなった。
「声」「顔」「身」につづいて「名」をめぐる(未完の)仮面考をいよいよしあげなければいけない。
私の直観がそう告げている。
仮面の素材や形態や機能には、なにかしら原始的とでもいうべき感覚に根ざした根源的な「記憶」が蓄えられている。
「真正の」哲学的思考のうちには、そのような「仮面的なもの」が脈々と流れ、あるいは突発的に噴き出している。
仮面的なものの原初的「形態」は、複数の穴をもった管(多孔体、たとえば笛や藁)や内部世界をもった器(たとえば洞窟や盤・椀・壷、壁面=表層=皮膚に刻印された動物系・植物系の装飾を含めて)であって、それらが「音=声」「顔=貌」「身=実」といった物質の三態に準えることのできる「機能」を備えた時、仮面的なものの原型がほぼ出来上がる。
さらに物質の第四相、つまりプラズマに相当する第四の機能としての「名=徴」をめぐる「仮面の記号論」(パースのインデックス・イコン・シンボルに次ぐ第四の記号としてのマスク、あるいはイェイツの「仮面」をめぐる考察が拓く世界)が仮面的なものの実質と射程を余すところなく開示する云々。