2005年に読んだ本(その3)

養老孟司玄侑宗久『脳と魂』(筑摩書房:2005.1)
 この二人は呼吸が合いすぎている。養老さんがしだいにべらんめえ調(ビートたけし風?)になっていくのがおかしい。細胞=システム=空(=器)、遺伝子=情報=色(=道)。人間は空であり、言葉は色である。養老システム学と玄侑の仏教がつながる。玄侑「先生はやっぱりあれですよね。科学の立場だから、口が裂けても「魂」とは言いたくない。」養老「いや。だから言いたくないっていうよりも、魂の定義が出来ないんです。僕の場合はそれなりに定義するんですよ。だから、システムとしか言いようがないんですよ。」


茂木健一郎『脳と創造性──「この私」というクオリアへ』(PHP:2005.4)
 良いソムリエは、素人の客との会話の中で「客に合わせてそれまでにないワインについての語り方を生み出すことができる」。第4章「コミュニケーションと他者」にそう書いてある。「よいソムリエというのは、客が何かを言った時に、その場で口から出任せを発することができるクリエーターなのである」。この「口から出任せ」こそ会話がもつ創造性の基点であって、「私たちは脳から外に言葉を出力してはじめて、自分が何を喋りたかったのかが判るのである」。けっして難しくはない茂木さんの議論に隠れた意味や展開があるのではないかと思えるのは、たぶんこの本が「口から出任せ」的な思考と発想の生の躍動とライブ感を伝えているからだろう。


◎ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論──宇宙の意味と表象』(松野孝一郎他・青土社:1999.7)
 細部にちりばめられた話題や知見や引用や比喩や洞察の数々が未消化のまま私の脳髄のそこかしこにわだかまり、跳梁し跋扈してしだいに内圧を高めていく。それと同時に、ここで論じられていたのは畢竟するに何であったかがしだいに朦朧かつ不分明になっていく。こういう心理状態を物狂いとでも呼ぶのだろうか。しばらく寝かせ、機をとらえてもう一度読み込む。あるいは座右に常備し、折節拾い読みをしては読後の興奮を宥めつつ、混沌を身のうちに飼い慣らす。処方箋ははっきりしているのだが、しばらくは呆然と余韻を楽しみたい。


◎マーカス・デュ・ソートイ『素数の音楽』(冨永星訳,新潮クレスト・ブックス:2005.8)
 惜しみながら読み継いでいった。途中でリーマン予想の内容がよく判らなくなったが(いや、そもそも最初からよく判っていないが)、そんなことはこの書物を味わう上ではまったく関係がない。実に心地よい読中感は最後まで失われることはなかった。それにしても美しい書物だ。


◎川崎謙『神と自然の科学史』(講談社選書メチエ:2005.11)
 「アヒル‐ウサギ図」というものがある。アヒル文化人(古代ギリシャ人の方法で考える西洋人)はこれをアヒル(ネイチャー=神の被造物)と言い、ウサギ文化人(「ことあげせぬ国」の日本人)はこれをウサギ(自然=無上仏)と見る。ネイチャーという書物に隠された神の創造の秘密を読み解き、自然「を」学ぶアヒル文化人。「われわれに隠されているものはなにも存在しない」と考え、自然「に」学ぶウサギ文化人。後者にとって実験とはエクスペリメントではなくエクスペリエントであり、観察するとはオブザーブではなくコンテンプレートである。


加藤幹郎ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』(みすず書房:2005.6)
 片脚を骨折した冒険好きのカメラマンが裏窓越しに目撃した殺人事件は、はたして本当にあったことなのか。カメラマンはファッション業界人の美しい恋人の求愛をなぜ、またいかにして拒絶しようとするのか。本書には、ヒッチコックの傑作『裏窓』から著者が切り出してきたこの二つの謎の提示から始まる三つのスリリングな論考が収められている。映画はヒッチコック以後、『サイコ』以後のヴィジョン(黙示録的世界)を全うしていない。映画のヒストリーはいまだミステリーのままである。その意味で、本書の冒頭で提示された二つの謎はまだ解かれていない。


岡田暁生西洋音楽史──「クラシック」の黄昏』(中公新書:2005.10)
 西洋音楽史を「私」という一人称で語り、「私」という語り手の存在を中途半端に隠さないことに徹しようとする志が素晴らしい。歴史はたんなる情報や事実の集積ではない、事実に意味を与えるのは結局のところ「私」の主観以外ではありえないとする断念が潔い。音楽と音楽の聴き方(「どんな人が、どんな気持ちで、どんなふうに、その音楽を聴いていたか」)とを常にセットで考え、だから西洋クラシック音楽を、たとえそれが世界最強のものであるとしても徹頭徹尾「民族音楽」として、つまり音楽を聴く場に深く根差した音楽として見るその視点に惹かれる。


◎北沢方邦『音楽入門──広がる音の宇宙へ』(平凡社:2005.11)
 壮大な見通しのうちに人類がこれまで音楽との間に結んできた関係の総体がコンパクトに凝縮された入門書で、その細部を精緻に拡大し、実際の音響体験と著者の深甚な学殖とでもって本書に記載されなかった情報と知見を補填していけば、途方もない書物が完成するであろう。ウェーベルンアルヴォ・ペルトにこよなく惹かれる私の個人的な関心をいえば、20世紀初頭の「革命」後、「いったんモノに還元した音は、だが二つの方法によって意味の伝達を可能とする」と書かれているところをもっと噛み砕いて解説してほしかった。


宮沢章夫チェーホフの戦争』(青土社:2005.12)
 宮沢章夫は本書で「チェーホフの劇作法として特徴的な、「舞台上に起こっている出来事と、その外部で発生している出来事」との関わり」について考えた。その「読解」の結果、宮沢章夫が見出したものはチェーホフ的な「醒めた目」であり、「メタレベルで演劇を見ているチェーホフの視線」であり、「空虚を表現として出現させるチェーホフ特有のイロニーに充ちた技法」であった。「メタレベルで演劇を見ている」のは作家チェーホフであり、同時に批評家宮沢章夫である。その「メタレベル」においてこそ、桜の木に斧を打ち込む「遠い音」がバブル経済の槌音と響き合い、妊娠した女優に向かい「女優だったらその窓から飛び降りてみろ」と言い放つ演出家の言葉にこめられた演劇集団の生‐政治性が浮かび上がり、47歳のワーニャの鬱が同年齢の宮沢章夫や石破防衛庁長官イラクへの自衛隊派遣当時)の身体性(の欠如)と通じあい、未来の戦争の予兆に苛まれた「作家の鋭利な知覚」がはたらく。