2005年に読んだ本(その2)

内田樹『先生はえらい』(ちくまプリマー新書:2005.1)
 こんなに難解でひねくれて謎に満ちた書物を「若い人」に読ませるのはとんでもない。もったいない。秘伝書の中身をこれほどあけすけに語ってしまっていいのか。いいんです、そこに慈愛があれば。内田樹ほど「近所のおじさん」にぴったりの慈愛の人はいない。


前田英樹『倫理という力』(講談社現代新書:2001.3)
 生の究極の目的は、決して忙しがらずに美味いトンカツを揚げること、毎日白木のカウンターを磨き上げながら自分の死を育てていくことである。──この言葉に説得されるだろうか。「在るものを愛すること」という言葉は在るものを愛することへと人を動かすだろうか。もしそうであれば、ここにひとつの奇跡が成就したことになるだろう。著者の綴る言葉は熟成したソース(倫理の原液)に浸された芳醇な料理としてさしだされる。


森岡正芳『うつし 臨床の詩学』(みすず書房:2005.9)
 心理臨床の現場で起こっていること、つまりクライアントとセラピストの対面・会話の場がひらく「中間世界」における言葉と感情の重なり合いと変様の推移を丹念に綴った書物。著者の紡ぐ言葉は美しい。それにしても 後味のいい本だった。透きとほった静謐感。しんしんと降り積もった透明な雪片が、まるで無数の倍音をはらんだ音の粒子のように、自らの抽象的な重みと戯れている清涼な沈黙のざわめき。


木村敏『関係としての自己』(みすず書房:2005.4)
 木村敏の文章にはつねに既読感を覚える。実際、書かれている事柄はこれまでから何度もくりかえし著書でとりあげられてきたものがほとんどだ。微妙な言い回しや使用された概念の風味のようなものの違いはあっても、そしてアクチャリティとリアリティの概念の差別化など、その論考がしだいに精緻・精妙化され事の実相に肉迫する迫力は冴えわたっていくとしても、そのライトモチーフとバッソ・オスティナート(通奏低音)はつねに変わらない。木村敏における主題と変奏、差異と反復。それを一言で表現すれば「界面の思考」となろうか。


森岡正博『感じない男』(ちくま新書:2005.2)
 語りえないセクシャリティ(のねじれ)をめぐって、もっと豊かで多様な語り方はないのか。たとえばジョン・ケージが『小鳥たちのために』で語った「キノコの性」のように。あるいは、本書の最後に記された「他人を欲望の単なる踏み台にしないような多様なセックスのあり方」という森岡の性幻想を直接に語ること。


◎ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙──意識の誕生と文明の興亡』(柴田裕之訳,紀伊國屋書店:2005.4)
 四か月かけて読んだ。最初の興奮はしだいに薄れていったけれど、一字一句おろそかにせずに、それでいて自由気儘に、連想、空想、妄想の類の跳梁を楽しみながら読み続けた。実に面白い書物だった。仮説形成による推論(C・S・パースの「アブダクション」)の醍醐味を存分に味わった。


本村凌二多神教一神教──古代地中海世界の宗教ドラマ』(岩波新書:2005.9)
 人類の文明史五千年のなかで、じつに四千年は古代なのである。あとがきに刻まれたこの一文に、著者の古代地中海世界に寄せる思いが込められている。淡々とした筆致で綴られたこの古代の民族や社会の概念と感性の歴史、神々と言語の物語を手にして、単なる知識や情報の入手に汲々とするのはもったいない。できればゆったりとした時間の流れとともに、この小冊子の紙背から漂うエキゾチックな香を心ゆくまで堪能し、はるかな土地と時の人々に思いをはせてみたい。


◎辻信一『スロー・イズ・ビューティフル──遅さとしての文化』(平凡社ライブラリー:2004.6)
 気温の変化に合わせて森は一年間に五百メートルまで移動できる。この書物はそのような生物時間、地質学的時間に寄り添いながら、ゆっくりと読まなければならない。スローネス、つまり遅さ、慎み、節度をもって、そして過去への畏れと未来へのノスタルジーをもって、ゆっくりと読まなければならない。


中沢新一『アースダイバー』(講談社:2005.5)
 泥をこねて形象をつくること。あるいは、形象のうちに泥をイメージすること。王朝和歌の歌人のように。あるいはサイコダイバー、ドリームナビゲーターのように。それが中沢新一の方法、つまりイメージ界のフィールドワークである。松原隆一郎さんが朝日新聞の書評で「文学的想像力」とか「遊び心」といった言葉を使っている。まことに適切な評言だ。