2005年に読んだ本(その1)

2005年・私のベスト3というものを「発表」しようと思って作業を始めたら収拾がつかなくなり「1次選考」で頓挫した。
永井均『私・今・そして神』と内田樹『他者と死者』は当確だが、これはむしろ2004年版に分類すべきもの。)
そこで、昨年中に読み終えたか「書評」を書いた本のうち心に残ったものをジャンル別に、しかし順不同で並べてみることにした。
もっと絞り込みをかけたいけれど、それを始めるとまた混乱する。6回シリーズの予定。

 
永井均『私・今・そして神──開闢の哲学』(講談社現代新書:2004.10)
 本書の平易で丁寧で率直な語り口は、これで分からなければそもそも「分かる」とはどういうことかと問いたださなければならないほどに分かりやすい。それなのに、肝心なところでいまひとつ分かった気がしない。分かったと思ったとたん、何が分かったのだったかが分からなくなる。それが、そういう経験を「思い出す」ことが、永井均の本を読むということの意味だと思う。


内田樹『他者と死者──ラカンによるレヴィナス』(海鳥社:2004.10)
 昨年『死と身体──コミュニケーションの磁場』に続いて読んだ内田樹の『他者と死者』は、これまでに読みえたレヴィナス本やレヴィナス関連本のなかでも群を抜いたとびきりの面白さだった。私の年間ベストどころか、もしかすると生涯にわたるベスト作品の候補にノミネートされるべき本かもしれないと思う。


大森荘蔵『知の構築とその呪縛』(ちくま学芸文庫:1994.7)
 大森荘蔵の文章を読むたび、その理路に圧倒され、かつそこに「無理」を感じる。言葉や概念が少しずつ「人間的な」意味を剥奪され、言葉以前、概念以前へ、古代のギリシャ人が「ピュシス」と呼んだものの方へとなだれこんでいく。本書には「自然の様々な立ち現れ、それが従来の言葉で「私の心」といわれるものにほかならないのだから、その意味で私と自然とは一心同体なのである」と書かれているが、そこには「一体感」を感じる私はもういない。もちろんそのような私(「私の心」)などいなくなってもいいのだが、人は論理でもってそのような境地には導かれない。


◎古東哲明『他界からのまなざし──臨生の思想』(講談社選書メチエ:2005.4)
 骨太の叙述。すなわちクリプトグラム(墓碑銘・暗号記号)としての哲学書。ほとんど詩(古代ギリシャの哲人の訥弁で語られたな叙事詩)と見紛う文体で綴られたこの書物には、しかし実質的なこと(古東哲明の思想)は何も書かれていない。読み終えて何も残らない。幸福な充填と愉悦に満ちた空虚(密儀としての読書)。


上野修スピノザの世界──神あるいは自然』(講談社現代新書:2005.4)
 考えているのは自然(事物)であって、私(精神)ではない。本書のキモは次の文章のうちに凝縮されている。「スピノザの話についていくためには、何か精神のようなものがいて考えている、というイメージから脱却しなければならない。精神なんかなくても、ただ端的に、考えがある、観念がある、という雰囲気で臨まなければならない。」


◎湯山光俊『はじめて読むニーチェ』(洋泉社新書y:2005.2)
 この本は第二章が圧倒的に素晴らしい。湯山さんはそこで、ニーチェが発見・発明した三つの概念(アポロンディオニュソス永遠回帰力への意志)と二つの心理学(ニヒリズムルサンチマン)と四つの文体=方法(詩・アフォリズム・キャラクター・系譜)を、ニーチェの生理と生涯とその著作に、そしてデリダドゥルーズアドルノなどに関連づけて解説している。わけても文体論が画期的に素晴らしい。この本のハイライトをなすと同時に、その叙述のいたるところに湯山さんの独創がちりばめられている。


木田元ハイデガー拾い読み』(新書館:2004.12)
 この本はけっして読み急いではいけない。木田元の名人の域に達した語り口にゆったりと身をゆだね、逐行的に細部を味わいながら読まなければいけない。「〈実在性〉と〈現実性〉はどこがどう違うのか」とか「「世界内存在」という概念の由来」とか「古代存在論は制作的な存在論である」とか、これまでから木田元の著書で何度も何度も繰り返し取り上げられてきた話題が延々と続く。落語の十八番のように。読むたび新しい刺激を受ける。物覚えが悪くなったのを嘆くより、何度でも愉しめることを歓ぶべきで、これも「生きる歓び」の一つだろう。


野矢茂樹『他者の声 実在の声』(産業図書:2005.7)
 大森荘蔵の『流れとよどみ』にかかわった編集者に声をかけられて生まれた本だという。本書に収められた「「考える」ということ」というエッセイに次の文章が出てくる。「なめらかな言語ゲームの遂行において思考を見て取ろうとしたウィトゲンシュタインはまちがっている。われわれは、思考を論じるにあたって、むしろ目を言語ゲームのよどみへと向けねばならないのではないだろうか」。この「言語ゲームのよどみ」において聞こえてくるのが、「言語の外」から届く野生の他者(「意味の他者」=たとえば哲学者)の声であり実在の声なのである。「私に意味を与えよ」。「さあ、語り出してごらん」。「言語の外」は語りえない。しかし語りうる世界(言葉の内=論理空間の内部)は変化する。この語りの変化のうちに他者の姿は示される。だから「語りきれぬものは、語り続けねばならない」。これが野矢茂樹のテーゼである。哲学的問題の感触の残り香に身を浸した読者もまた、こうして読み続けることになる。


坂部恵『モデルニテ・バロック──現代精神史序説』(哲学書房:2005.4)
 名著『ヨーロッパ精神史入門──カロリング・ルネサンスの残光』の続編ともいうべき本書は、西欧日本を通底する千年単位の精神史的水脈のうちに近代日本のモデルニテの帰趨を位置付け、来るべき日本哲学の可能性を一瞥する誘惑の書である。本書には多くの謎と挑発が仕掛けられている。無尽蔵の刺激と創見が言い切られることのない断片隻句のうちに鏤められている。