『音楽入門』

北沢方邦『音楽入門──広がる音の宇宙へ』読了。
荘子は音楽を「天(宇宙)の音楽」「地(自然)の音楽」「人間の音楽」に区分した。
著者は本書の前半(第一章〜第三章)で、わが国の古代を含む環太平洋文明圏における「スリット・ドラムまたは太鼓という楽器の象徴論」を探る旅をかわきりに、日中の雅楽、バリ・ガムランからインドへと、野生の思考(神話的思考)にもとづく「宇宙論的音楽」の諸相をたどる。
後半(第五章〜第七章)では、西欧社会における「人間の音楽」の登場と挫折と没落を、16世紀の宗教改革にはじまり、ロマン派による「主観性の反乱」やドビュッシー、ラベル、ストラヴィンスキーらの「革命」(人間の音楽=主観性の音楽からモノとしての音へ)を経て、二つの大戦後の「記号的ニヒリズム」へといたる一つづきの物語として描いている。
そして最後に、音楽における身体性と種族性(エスニシティ)と宇宙論復権によって音楽という記号の意味の回復をはたす「世界音楽」(ゲーテベートーヴェン的な意味での)を提唱している。
いずれも濃厚な刺激に満ちた文章だが、とりわけ前半(東方)と後半(西方)をつなぐ第四章「われ楽園にありき──楽園または神の国の音楽」が素晴らしい。
そこに描かれた中世イスラーム神秘主義者(スーフィー)たちが奏でる象徴的・抒情的な「声のアラベスク」の物語はこよなく美しい。
本書のあとがきに著者は次のように書いている。

われわれはいまこそいっさいの偏見から離脱し、西欧に限らず世界音楽を「世界音楽」として認識しなおさなくてはならない。
 アフガニスタンイラクでの戦乱や危機以来、その多くの犠牲や破壊のうえに成立した唯一の収穫は、中近東やイスラーム文明についての知識が、一般的にひろまったことである。だがそれは知識にとどまり、理解にまでいたってはいない。異文化の理解とは、それがわれわれの感性や身体性にまで訴えかけたとき、はじめて生まれるものである。
 私にとっては、イランやアラブの古典音楽に親しみ、イスラーム寺院や宮殿の建築を、その壁のみごとなアラベスク模様、あるいは楽園の模像としてのアランブラやヘネラリーフェの庭園などへの賛嘆があったからこそ、それらの知識は身近なものとなり、イスラーム文明への理解が進んだといえるだろう。
 世界音楽を「世界音楽」として認識する、というのはそのことである。(221-222頁)


壮大な見通しのうちに人類がこれまで音楽との間に結んできた関係の総体がコンパクトに凝縮された入門書で、その細部を精緻に拡大し、実際の音響体験と著者の深甚な学殖とでもって本書に記載されなかった情報と知見を補填していけば、途方もない書物が完成するであろう。
ウェーベルンアルヴォ・ペルトにこよなく惹かれる私の個人的な関心をいえば、20世紀初頭の「革命」後、「いったんモノに還元した音は、だが二つの方法によって意味の伝達を可能とする」と書かれているところをもっと噛み砕いて解説してほしかった。
(このあたりのことは、佐々木力『数学史入門』に出てきた十二音技法とブルバキズムの類比性や中国数学のプラグマティズムといった話題にも関係してくるように思う。)

つまりひとつは、音の鋭く複雑な波濤のなかに民族的素材がみえかくれすることによって、それらの旋律が表現していた古風で温かな世界を喚起し、不安と苦痛にみちた現代と対比する。
 もうひとつは、古典主義の形成を変形──黄金分割やフィボナッチ数列にそって導入したり──しながらも忠実に踏襲することで、たとえばベートーヴェンの、とりわけ後期の作品との類比を可能にし、古典の意味論の先鋭な現代化であることを暗示する。(186-187頁)