『物質と記憶』(第19回)

今年最後の『物質と記憶』独り読書会。
第四章「イマージュの限定と固定について──知覚と物質、心と身体」の最初の二節、「二元論の問題」と「従うべき方法」を読んだ。
冒頭で、これまでの三章から引き出される「一般的結論」が示される。
すなわち、身体(脳を含む)は伝導体である。
その本質的機能は、精神生活を行動のために限定することである。
それは知覚と記憶力のいずれにかんしても、表象にたいする選択の道具にすぎない。
「私たちがこの仕事を企てたのは、精神生活における身体の役割を定義するためだから」とベルクソンは書いている。
「厳密にいって、私たちはここまでにしておいてもかまわないであろう」(200頁)。
おいおい待ってくれ。それだけではあまりに切ないし、だいいち尻切れとんぼだ。
第七版の序に書いてあったことはどうなる。
そこには「ひと口にいえば私たちは、観念論や実在論が存在と現象に分けてしまう以前の物質を考察するのだ」(6頁)と書いてあった。
そのために第一章で「物質はイマージュの総体である」「物質は事物と表象の中間にある存在である」といった物質の見方を確立し、第二、第三章で手がけられる「この研究の眼目をなす当の問題、つまり精神と身体の関係の問題」(8頁)にかかわる限りで、そこから引き出される諸帰結を第四章で示すと予告されていたはずだ。
こうして読者に気をもたせた後で、ベルクソンはおもむろに「心身結合の問題」(201頁)へと説き及んでいく。
三つの二元論(唯物論と観念論、経験論と独断論決定論と自由意志論)をすりぬける第三の立場、中間の道を探求する。
いわく、純粋知覚の理論は extension という観念の中に非延長と延長の接近の可能性をひらき、純粋記憶の理論は緊張(収縮)と弛緩の考察を通じて質と量の接近の道を準備する(唯物論と観念論にかわる第三の説)、等々。
第四章最終節の結語を先読みすると、それらは「延長をもつ物質は、全体として考察すれば意識のようなものであ」(245頁)るとか、「身心の区別は空間の関数としてではなく、時間の関数として打ち立てられるべきだ」(246頁)とか、「過去は物質によって演ぜられ、精神によって思い浮かべられる」(249頁)といった議論に結びついていく。
いずれも、第一章で議論された「物質=イマージュ説」から一足飛びに引き出されるものだ。
要するに、結論はもうとうから見えている。
(実は最初から、『物質と記憶』を読む前から判っていた。)
あとはただこの既知感の実質をなぞるだけのことだ。
すでに知っている事柄を再確認するだけのことでしかない。
もちろん、論証の過程で新しいアイデアがいくつか示されることだろう。
今日読んだところでいえば、たとえば「空間を通してなされる純粋持続の一種の屈折作用」(207頁)、つまり直接的な「現実との接触」(「真の経験、すなわち精神とその対象がじかにふれ合うことから生まれる経験」205頁)から「経験の曲がり角」を経て実生活の必要のために行われる「現実の細分化」へといたる作用がそうだ。
また「哲学的探求の最終段階は、まぎれもない積分の努力なのである」(207頁)とか、純粋持続の理論を物質に適用して、アフォーダンスの理論の先触れのようなことを述べたり、物質をその背後にひろがる「記号的図式化」(等質的空間)から解放する直接的認識の可能性に言及したりするくだり(207-208頁)には興奮させられる。
しかしそうした細部の議論も、結論を先取りした脳髄には通りすがりの心惹かれるエピソードでしかない。
これではだめだと思う。
哲学的思索の書を読んで、そこに結論をしか見ないのであれば、そもそも読む価値がない。
なにかが判るために読んでいるわけではないのだ。
もっと逐行的に、細かく割って読まないといけない。


内田樹が『死と身体──コミュニケーションの磁場』(109頁)で、「一流のピアニストが指一本でポンと弾く音と、ぼくが同じようにポンと弾く音では音の厚みが違う」と書いている。
「どうして音が違うかというと、プロのピアニストはキーに触れてからキーが止まるまでの指の動きを、たとえば一○に割って、その一つひとつの動作単位に緩急濃淡をつけることができる。(略)ぼくたちが人の身体表現を見て、「厚みがある、深みがある、美的な感動を受ける」というときには、たいていはその動きの「割れ方」が緻密だからなのです」。
このことと関係しているのかどうか自信はないが、ベルクソンは次のように書いている。
決定論と自由意志論に対する第三の立場として、「ちょうど花から実を結ぶようにそこ[行動]から発展しつつ、何か絶対に新しいものをそこにつけ加えるという風なのである」と説明される、純粋持続の「現実に生きられた連続」に身を置くことが示された後につづく文章である。

しかし考える存在である人間においては、自由な行動は感情と観念の総合ともいうべく、そこへ導く発展は合理的な発展であるといえる。この方法の工夫はといえば、要するに、日常的ないし功利的な見地と真の認識のそれとを区別するだけのことである。私たちが自分の行動を注視するときの持続、自分を注視することが有益であるときの持続は、諸要素が互いに分解し並列する持続である。しかし私たちが行動するときの持続は、私たちの諸状態が互いに溶け合うときの持続であり、行動の本性について思索する例外的な唯一の場合、すなわち自由の理論においては、私たちは思考によって、まさにそのような持続の内にこそ、身を置きなおすことをつとめねばならないのだ。(208頁)