『物質と記憶』(第8回)

物質と記憶』。第一章八節「感情的感覚の本性」から十節「イマージュ本来のひろがり」を熟読。十一節「純粋知覚」を素読
71頁から75頁にかけての「純粋知覚の理論」の手短かで図式的な要約はとても便利。
第一章の議論はほぼこれで尽きている。以下は第二章へのつなぎ。
ややドライブ感に欠けるのは読み手の側の事情か。


「私たちの知覚は純粋な状態ならば、本当に事物の一部をなすことになる」(75頁)。
この一節を読んで實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学』を思い出した。
實川氏は「意識革命」以前の西洋において意識は物質的であったと書いている。
「こんにちでは、心のうちで、物質や肉体に近いと考えられているのは、意識よりは無意識である場合が多いだろう。しかしながら、西洋中世においては、いや「意識革命」の前までは、意識のほうが物質に近かったのである。」(72頁)
これに続いて「十三世紀のトマスにおいては、感覚は「感覚器官の現実態」なのであった」
「このような発想自体は、現代の西洋思想でも、あいかわらず、新しげなよそおいで続けられている」(72-73頁)と書かれている。
ここで註がついていて、「新しげなよそおい」の一例として「アフォーダンス」が挙げられている。
それは「知覚を、環境との関わりの可能性ととらえる発想で、やはり可能態から現実態へという枠組みのなかにある」のであって、その「中身は、一○○年ほど前にフランスの哲学者ベルクソンによっても語られた考えで、五○年ほど前にはドイツのヴァイツゼッケル、フランスのメルロ=ポンティが、かなり洗練された形で示している」(233頁)。
この箇所は何度読みかえしても刺激的。


     ※
瀬里廣明氏が主宰する「幸田露伴研究所」幸田露伴論(その114〜116)に「仙書参同契とベルグソン」というエッセイが収められている。
冒頭の一文が目をひく。
露伴ベルグソンとの関連を指摘していたのは、日夏耿之介であった。あの東洋的なあまりに東洋的と言われる「仙書参同契」にベルグソンの「道徳と宗教の二源泉」の影を見た人である。」
以下、末尾に添えられた「補説」をペーストしておく。

日本近代の文学者で、ベルグソンから大きな影響を受けた人は小林秀雄であろう。戦後私が小林に会った時、彼は分析は嫌いです、私の文学は直観ですと即座に答えた。
 ベルグソン哲学の中核にある思想はエラン・ヴィタールだ。 これは生命の飛躍であり、根源的衝動である。これは持続の直観でしか捉える事ができない。即ち分析的加工的な知性では生命そのものを見ることは不可能である。神とはとどまることを知らない生命の流動であり活動である。それと合一するのが真の宗教である。露伴の「仙書参同契」は自然(人間もその一部)の中にある生命の根源的姿を描いた稀有の作品である。