『倫理という力』

前田英樹『倫理という力』読了。
プラトンは『パイドロス』で正確に考える人(知恵を愛する人)を「巧みな料理人」に譬えた(82頁)。
ベルクソンはこの比喩を愛好した。著者もこれを愛好する。
だから倫理を語る本書にトンカツ屋のおやじが登場した。


「トンカツ屋のおやじは、豚肉の性質について、油の温度やパン粉の付き具合について随分考えているに違いない。いや、この人のトンカツが、こうまで美味いからには、その考えは常人の及ばない驚くべき地点に達している可能性が大いにある。このことを怖れよ。この怖れこそ、大事なものである。」(8頁)


なぜか。「怖れることができるには、自分より桁外れに大きなものを察知する知恵がいる」(10頁)からである。
著者もまた「巧みな料理人」として倫理という食材を捌く。
その旨味、すなわち「潜在的道徳」(20頁)や知性でも本能でもない「第三の能力」もしくは強い大きなひとつの力としての「倫理の原液」(30頁)をひきだすために。
倫理とは人間の業である。
しからば人間とは何か。道具を使う動物である。言語を操る動物である。
この最初の分割(捌き)が本書の基調(風味)をかたちづくる。


道具は自然との接触において技術という知恵をうみだす。
美味いトンカツを揚げる技とスピノザを註釈する技倆とが同じ価値で出会うような場所で成り立つ技術。
その技術を継ぐことが同時に人間というものを継承することであるような技術(83頁)。
それは木(自然)に学ぶ宮大工の棟梁の信仰と倫理学(152頁)につながっていく。


「これは職人だけの領分ではない。生活の至る所に開けた自然への通路である。自然は私たちの知性に、ほんとうは何をさせたがっているのか、宮大工はどうやらそれを知っている。「物の心」、「人の心」を知る彼のやり方が、そのまま彼にその知恵を育てさせる。このような知恵が発する声に、私たちは耳をすませたほうがよい。その声の向こうにもっと低いもうひとつの声が聞こえる。それは、自然が知性に命じる声だ。道具を用いる知性が知性を超えて、ひとつの黙した倫理に達する路が、ここにある。」(160頁)


言語は知性の発明品ではない。
知性(個体の能力)が本能(集団の能力)から完全に分化したその地点に、言語は知性と共にすでに存在していた(114頁)。
著者はそう考える。
まず知性のエゴイズムから共同体を防衛するために、死後の世界や転生の物語を言葉や絵図で仮構する「静的宗教」が生まれた。
しかし、宗教は知性に対する自然の防衛反応である以上にもうひとつの源泉をもっている。
すなわち「エラン・ヴィタール」(ベルクソンではなく著者自身の言葉でいえば「倫理の原液」)。
ある「特権的な魂」によって告げられる「あなたの隣人を愛せよ」というただそれだけの言葉のうちに集約される「動的宗教」。


「静的宗教のなかに点火されて人類のなかに燃え続けてきた何か、消えかかっては再燃し、飛び火していった何か、宗教と呼ぶにはあまりに単純な言葉でしか表わすことのできない一つの力、私たちの社会を世界規模の危機から救うものは、まずこれだろう。これを動的宗教の本質と呼ぶかどうかはどうでもよい。この力は、黙していて、個体の知性の上に、知性以上の強い動力としてやってくる。」(129-130頁)


こうして調理の仕上げの段階を迎える。
自分より桁外れに大きなものへの怖れ。自然が知性に命じる声。
知性が知性を超えてひとつの黙した倫理に達する路。
個体の知性の上に、知性以上の強い動力としてやってくる沈黙の力。


「私たちの生の目的は、自然という〈ひとつの生〉が創り出す目的と同じ方向を向いている。私たちの理性は、この目的が何なのかを問うことはできる。が、明確な答えを引き出すことはできない。「在るものを愛すること」だけが、ついにその答えになる。答えて、その目的に応じる行為となる。それなら、この答えがうまく出るような生への問い方を、私たちは絶えず工夫しているほうがよい。それが、他のどの動物でもない、人間として生きるということではないのか。」(185頁)


生の究極の目的は、決して忙しがらずに美味いトンカツを揚げること、毎日白木のカウンターを磨き上げながら自分の死を育てていくことである。
人はこの言葉に説得されるだろうか。
「在るものを愛すること」という言葉は在るものを愛することへと人を動かすだろうか。
もしそうであれば、ここにひとつの奇跡が成就したことになるだろう。
著者の綴る言葉は熟成したソース(倫理の原液)に浸された芳醇な料理としてさしだされる。