『モデルニテ・バロック』

坂部恵『モデルニテ・バロック──現代精神史序説』読了。
バロックとは…モデルニテと通底してひとつの時代のおわりに立ち会いつつある者の生と思考のスタイルにほかならず、一方でビザンチンや中世の水脈につながりそれらの見直しと再評価をうながすものとして、千年単位の歴史の展望と見直しへとおのずからわたしたちを誘うのです」(53頁)。
名著『ヨーロッパ精神史入門──カロリング・ルネサンスの残光』の続編ともいうべき本書は、西欧日本を通底する千年単位の精神史的水脈のうちに近代日本のモデルニテの帰趨を位置付け、来るべき日本哲学の可能性を一瞥する誘惑の書である。
著者の眼差しはパランプセストのように重ね書きされたスピリチュアリティーとポエジー、そして形而上学的思索の歴史を垂直の次元で切断し、そこに出現する「あわい betweenness-encounter」を自らの身と感性と言葉でもってアクロバティックにつないでいく。
エリウゲナと空海ニコラウス・クザーヌス一条兼良。『神曲』と『愚管抄』。
あるいは「同時代人」としてのベンヤミン(1892〜1940)と萩原朔太郎(1886〜1942)、そして九鬼周造(1888〜1941)。

モダン・バロックアレゴリーに深い理解と共感を寄せたベンヤミンアレゴリー論と、朔太郎と九鬼におけるアレゴリーの位置づけを比較対照してみれば、そこに時代精神のありかたとその文化的伝統に応じての偏差というべきものが浮かび上がってくることでしょう。
 ある意味でモダン・アレゴリーに対応するものとして、二人が興味をよせた「いき」も蕪村も、いずれも日本の文化史におけるバロック・タルディーフ、遅咲きのバロックと称するべき現象でした。日本のバロックを、よくいわれるように、室町から安土桃山にかけての時代に認めるとき、この領域にたいする二人の関心の欠如ないし薄さをどう理解すべきでしょうか? このあたりについて考えてみることが、「実存主義」の理解にはね返るとすれば、それは、どのような形をとってはね返るでしょうか?(79-80頁)

本書には多くの謎と挑発が仕掛けられている。無尽蔵の刺激と創見が言い切られることのない断片隻句のうちに鏤められている。