実証思考としての歌学

松岡心平『中世芸能を読む』読了。
以前熟読した三章「連歌的想像力」はとばして、一章「勧進による展開」と二章「天皇制と芸能」と四章「禅の契機─バサラと侘び」を玩味した。
天皇制と禅をめぐる部分はやや物足りない。というか、打てば響く実質が読み手の側にまだ備わっていない。
何度も繰り返し熟読すべし。
天皇制については明石散人・篠田正浩『日本史鑑定──天皇制と日本文化』を参照すべし。明石散人の日本史鑑定シリーズは妙にそそられる。)
とりあえず現時点で注目している、禅と連歌に通底する「スピード感覚」について。
二条良経(『筑波問答』)の「連歌は前念後念をつがず」云々をふまえ松岡心平いわく。
連歌においては、前の意識と後の意識はつながらない。(略)それは、前後を切断して絶対の今を生きる、あるいは今から今へと非連続に一瞬、一瞬を充実して生ききろうとする禅の態度にきわめて近い。しかも、連歌は一句ごとに思わぬところへ転回していく…、連歌の世界は飛花落葉の、つまり有為転変の無常のこの世そのものを文芸として表現しているとみることができる」(171-172頁)。
このスピード感・バサラの世界が「日本で最初に禅を芸能に取り入れた」(140頁)後期の世阿弥にいたるや「外に出さず抑制した中に芳醇を目ざす、逆説的な表現の美学」(191頁)に到達するというアクロバティックな逆説。


     ※
小西甚一『中世の文芸』を探してジュンク堂三宮店へ。
めあての本はみつからず、桑子敏雄『西行の風景』と尾形仂(つとむ)『座の文学──連衆心と俳諧の成立』を購入。
昨日買った京阪神エルマガジン社の『ミーツ・リージョナル』11月号(特集「街の人はみな本好きだった。」)を手引きに、いよいよ古本屋詣でを始めるか。


西行の風景』は前々からいつか読むべしと思っていた。
『環境の哲学』を読み終えてからと思っていた。
はじめにとあとがき、そして第一章を通読して、いまこそ読むべき時であると確信した。
和歌即真言の思想。

空間とは「虚空」である。つまり、大空であるが、虚空は、西行が帰依した密教では、存在するものの真のすがたである。その虚空に出現する風景を心に映じたままに日本語で詠うこと、これが西行のもとめた「道」であった。このような西行の思想を一言でいえば、「空間と言語の思想」ということができるであろう。(3-4頁)

大岡信の解説「実証と想像力」によると、『座の文学』は重厚堅固な学の要塞で全部読み通すのに何日もかかる畏怖すべき著述である。
「堅固きわまる実証と、それを背景とする奔放な想像力の跳躍、そしてその跳躍の必然性を納得させる新たな実証──尾形さんの学問の基本は、常にこの二つの力のダイナミックな交錯の上に成り立っている」(377頁)。
ここでいわれる「想像力」の一例として大岡信が拾っているのが、夏目漱石『行人』の題名は芭蕉の「此道や行人なしに秋の暮」を本句どりした蕪村の「門を出れば我も行人秋のくれ」から採ったものではあるまいか、というもの。


     ※
話は本題からはずれるが、実証思考と対になるのは(想像力ならぬ)抽象思考であるというのが養老孟司説。
西欧におけるキリスト教と自然科学。日本における仏教思想と……。
『日本人の身体観』(日経ビジネス人文庫)の第四部「中世の身体観」に収められた「仏教における身体思想」に次のように書かれている。

要は、わが国にも西欧にも、同じように抽象思考があり、その思考の形式に従って、「解毒剤としての実証思考」が成立するのではないか。もしそうだとすれば、わが国の実証思考を知るためには、わが国の抽象を支配する思考すなわち仏教を知らなければならない。ところが、面白いことに、仏教という抽象思考については、書かれたものがたくさんあるのだが、実証思考の方は、この国では「思想」として表明されない傾向があることが注意される。(231頁)

以下は私の仮説にすぎない。
養老孟司さんがいう日本の実証思考は、歌論、連歌論、能楽論、俳論の類においてかろうじて「思想」として表明されているのではないか。


例証(実証)その一。
同じく「中世の身体観」に収められたもうひとつの論考「中世の身心」に、「私は、東洋の古い文献で脳を論じたものを知らない。「髄脳」ということばはある。しかし、これを表題にした書物は、要するに歌論書である」(266頁)というくだりがでてくる。
『日本古典文学全集50 歌論集』(小学館)巻末の「歌論用語」に、髄脳(ずいのう)とは「詠歌の法則、心得、秘説、またそれらを記した書物」とある。
『八雲御抄』には「五家髄脳」として『新撰髄脳』(藤原公任)『能因歌枕』『俊頼無名抄(俊頼髄脳)』(源俊頼)『綺語抄』『奥義抄』があげられているとも。

先に引用した文章のすぐ後に「ところで中世の文献では、心ということばが頻出する」(267頁)とあり、養老孟司さんは続けて鴨長明の「あればいとふそむけばしたふ数ならぬ身と心との中ぞゆかしき」(「千人万首」の通釈によると、「生きていればそのことを厭い、現世を背こうとすれば慕わずにはいられない。数にも入らないような我が身と、それを厭ったり慕ったりする心と――二つの間柄はいったいどうなっているのか、知りたいものだ」)が、そして「吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき」他の西行の歌が引用される。
「心の艶」を連歌論の鍵語とした人物はその名も心敬という。


例証その二。
荒俣宏『「歌枕」謎ときの旅』(知恵の森文庫)に歌合[うたあわせ]の判定をめぐる話題がでてくる。
荒俣宏いわく「歌合とは、歌と歌をぶつけあう歌の相撲である」(40頁)。
今日ならさしずめ「詩のボクシング」といったところだろう。
ところで歌の良し悪しを判定するとはどういうことか。
藤原清輔『袋草子』下巻「三十講歌合」に、赤染衛門の「かへるべきみちもとほきにかはづなくさはべにひをもくらしつるかな」に評者の藤原義忠朝臣が下した判定が記されている。
蛙が夕暮れから鳴きはじめるものと知りつつ、沢辺に一日いたという。フィクションくさいので負け。
荒俣宏いわく。
「研ぎ澄まされた美と雅の感性だけをもって、神のように「こっちが文学的にすぐれている」と託宣するのか、と思っていた。理屈というより師匠の趣味によって判定するものと信じていた。ところが実際は、歌の良し悪しを博物学的知識によって決していたのである」(42-43頁)。
また「歌をつくるということは、まこと、文学である以上に理学に近い。数学や法律学に近い。そう、思った。そういうわけで、わたしは歌合の発見から、ようやく歌の理論すなわち歌学に興味をもつようになった」(45頁)。
歌学は科学(博物学・理学)に通じる。