ケルト熱・連・その他

毎月6日の人社講の第二回目。
神が宿るのではない、存在が神なのだ。宗匠の弁天さんの命題。この言葉を知ったことが第一の成果。
第二の成果はケルト熱が再発したこと。
坂部恵さんの「日本哲学の可能性」(『モデルニテ・バロック』)によると、西欧日本を通じた第一の精神史的転換期(9世紀、霊性の基盤)を代表する思想家はエリウゲナと空海で、この二人の並行性は多岐にわたるが、その一つはかれらの思想のなかに「民衆のメンタリティーのなかに生きてはたらく思想や霊性と通底するところ」があったこと。
修業時代の空海が日本古来の山岳修業者の伝統とかかわりをもったこと。
アイルランドに出自をもつエリウゲナの思索にケルトの想像力、構想力と通底するところがあったこと。
ケルト霊性と日本の霊性。このあたりのことは永久保存本、鎌田東二『宗教と霊性』を再読して確認しておこう。
手元においておきたくて二冊買った坂部恵『仮面の解釈学』もあわせて読んでみることにしよう。


     ※
田中優子さんのホームページで遊んでいて「連とは何か」のページをみつけた。
これはずっと以前にも見ているはずだが、あまり記憶に残っていない。
田中優子さんはそこで、日本の「連」(Forum)の起源は二つの方向から考えられると書いている。
一つは連歌。歌垣や宴、歌合の例にみられるように古来から「集まって歌を作るのは自然なことだった」。
いま一つの起源は農村の社会構造。ここは大事なところなので丸ごとペーストしておく。
(歌論と農書の研究。このふたつが一つにつながった。)

日本の村は「村」を最小単位とするものでなく、多数の小グループが複雑に交錯し合って村を形成していた。それらは機能によって「座」「講」「組」「結」「中」と呼ばれていた。その中の「講」は仏教の布教にともなってできた全国ネットワークをもつものであり、村は小グループによって外の村とつながっていた。また農村の「一揆」のグループと連歌のグループとは重なることがしばしばであった。町の運営の単位もこの構造に似せて作られていた。


ついでに先月末、半日ほどかけてインターネットで遊んだ「成果」の一端をペーストしておく。


◎その一
「独人のささめごと」というページに「心敬の連歌論について」の序論と第1章(「艶なる道」としての歌道)が掲載されていた。
心敬は『さゝめごと』第三九段で「誠に世にみちてよりは、心たかく情けふかき道は絶え侍るにや。ひとへに舌の上のさへづりとなりて、胸の修行は跡なく侍るやらん」と書いている。
和歌連歌同一、仏道歌道一如の説はここに由来する。
独人氏は心敬の連歌論のキーワードを「(心の)艶」と定め、その解釈論を展開している。

「心の艶」の「心」とは、<句の心><作者の心><鑑賞者の心>という三つの「心」において考えられるのだが、「まことに艶なる句」とは、これらが全て「艶」なるものであるとき初めて成立すると言えるだろう。まず<作者の心>は当然「艶」でなければならない。そうでなければなければ、色どりに囚われて「ざうきの入れこ」や「町あしだ」に憂き世を見出すこともないし、その場合には「胸のうち」の魅力として賞賛されることもない。そして「艶」なる<作者の心>から詠み出だされた句は当然「艶」なる<句の心>を持つことになる。この<句の心>は、「艶」なる<作者の心>の一事例としての具体化である。ところが、この両者の「艶」をまことに「艶」なるものとして理解できるのは、それを「艶」と見ることのできる「艶」なる<鑑賞者の心>のみである。即ち、「艶」なる<鑑賞者の心>によって「艶」なる<作者の心>が推し量られ、共有されるからこそ、「まことに艶なる句」は「まことに艶なる句」たり得るのである。その意味で「まことに艶なる句」とは、「艶」なる<作者の心>と「艶」なる<鑑賞者の心>とが一つとなることによって成立する、双方の「心の艶」の共鳴の産物と言えるのである。(中略)歌道はまさに「艶なる道」でなければならなかった。この「艶なる道」こそは、「艶なる歌人」が「心の艶」を共鳴し合い、「まことに艶なる句」を詠み交わす道として、心敬の求めるまことの道に他ならなかったのである。


◎その二
田中裕さんのブログ「プロセス日誌」に「プロセスの詩学─座の文藝に関する考察」という興味深い論考が掲載されていて、その四「連歌における相互主体性」に次の文章が出てくる。

連歌の美的理想をもっとも体系的に述べたのは中世の芭蕉とも呼ばれる心敬である。彼の主著、『ささめごと』は、多くの点に於いて蕉風俳諧を先取りする議論がなされている。とくに
 親句は教、疎句は禅、親句は有相、疎句は無相、親句は不了義、疎句は了義経
というごとく、仏教哲学の用語を以て連歌の理念を述べている点に特色がある。
 心敬の歌論では、「疎句附け」が連歌の醍醐味とされている。それは、禅問答に典型的に表されるような独特の対話的精神の発露であり、連歌の附合の呼吸を表現するものであった。

同じく「連歌の美学的考察」に「親句は教、疎句は禅」という心敬の言葉をめぐる考察があって、最後に三句切れ疎句表現の例として寺山修司の「マッチするつかの間海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」がとりあげられている。

これは寺山の代表作ですが、上句はある雑誌に出ていた俳句を寺山が借用したというので問題になりました。私の見るところでは、この短歌はもとの俳句とは別のものとして鑑賞されねばなりません。この短歌の詩情は、上句だけにあるのでも下句だけにあるのでもなく、両者がある緊張をはらんで対峙している疎句付の関係にあります。 こういう種類の詩情こそ、連歌が追い求めているところのものに他ならないのです。


◎その三
親句・疎句を検索していて(こんな基本用語を知らなかった!)、小池正博という人の「連句から見た迢空と茂吉」に出合った。
斎藤茂吉の魅力は疎句にある。たとえば「たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり」(『赤光』)。
この歌をめぐる二つの評言。

常に俳諧に親しんでその潜在意識的連想の活動に慣らされたものから見ると、たとえば定家や西行の短歌の多数のものによって刺激される連想はあまりに顕在的であり、訴え方があらわであり過ぎるような気がするのをいかんともすることができない。斎藤茂吉氏の『赤光』の歌がわれわれを喜ばせたのはその歌の潜在的暗示に富むためであった。(「俳譜の本質的概論」『寺田寅彦随筆集』第三巻、岩波文庫


鳳仙花と上海動乱、このニ物衝撃、二者の意外な出会によって生ずる美的空間は、近代短歌の中でも、『赤光』一巻の中でも、瞳目に値しよう。はっとするくらゐ新しい、緊張と戦慄を伴った短歌など、かつて誰が予想し、誰が実践して見せてくれたらう。別にロートレアモンブルトンを担ぎ出すことはない。しかし、短歌では、ふと彼らを想起したくなるほど画期的な作品ではあった。そして、今日見てもなほ、別の問題を提出してくれさうだし、少しも古びてはゐない。(塚本邦雄『茂吉秀歌「赤光」百首』講談社学術文庫

親句の例。釈超空「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を 行きし人あり」(『海やまのあひだ』)。
この作品に対する自注。

山道を歩いてゐると、勿論人には行き遭はない。併し、さういふ道に、短い藤の花房ともいふべき葛の花が土の上に落ちて、其が偶然踏みにじられてゐる。其色の紫の、新しい感覚、ついさつき、此山道を通って行った人があるのだ、とさういふ考へが心に来た.もとより此歌は、葛の花が踏みしだかれてゐたことを原因として、山道を行った人を推理してゐる訳ではない。人間の思考は、自ら因果関係を推測するやうな表現をとる場合も多いが、それは多くの場合のやうに、推理的に取り扱ふべきものではない。これは、紫の葛の花が道に踏まれて、色を土や岩などににじましてゐる処を歌ったので、今も自信を失ってゐないし、同情者も相当にあるやうだが、この色あたらしの判然たる切れ目が、今言った論理的な感覚を起し易いのである。(「自歌自註」『折口信夫全集31』中央公論社