歌の心・富哲世さんの詩

瀬名秀明デカルトの密室』で、「中国語の部屋」に幽閉された尾形祐輔が「これは機械の振りをするのではない、人間の振りをするのでもない。本当にぼくが人間であることを明示する戦いだ」「ぼくは文字情報だけで生身の人間であることを証明しなければならない」(100頁)と独り言を呟いている場面を読んでいて、チューリング・テストで検証される「AIの心」とは心敬が「艶」と呼ぶ「歌の心」と同じ種類のものなのではないかと考えた。
歌の心、つまり文字で表現された作品の心。それは比喩ではない。
心は物に即して語られる。心は物とともに在る。物を離れて心はない。
心が物に宿るのではない、物の存在が心なのだ。(物来って我を照らす。)
ここで昨日の会合でもう一つ成果があったことを思い出した。
実験人文学というアイデア。それは自然科学の実験や社会実験とは異なる。
価値を創り出すこと。文化、伝統、歴史、共同性その他、考究の対象を自ら創り出すこと。
歌を詠む作者の心、作品そのものにあらわれた歌の心、歌を鑑賞しこれに句を付け評定する者の心。
自らの身体のうちにこの三つの「心」のはたらきを見出すこと。実験神学。実験形而上学


詩人の富哲世さんから『イリプス』16号が届く。富さんとは先日、偶然に再会した。
「移動」という詩が掲載されていた。
「隧道横のバス停で/あふれる日差しに心まみれて/風の運ぶ海の落葉をぼんやり見ていた」。
なにかが終わってしまって、世界は静謐な諦念のようなものにくるまれている。
世界はじつは狂っているし、壊れているのだが、そのことに気づく人はいない。
いや、気づいているのだが、なにに気づいているのかをだれもしらない。
言葉は心とのつながりを失って、落葉のように、秋の日差しのように、ひらひら、キラキラと砕けていく。「仕方ないなぁ、わたしたちの/間違いさがし」。
富さんの詩の言葉は、かつての自らの肉を切り刻んでいくような無邪気な凶暴さを失っている。
屍肉が放つ死臭を帯びている。だが、その香は芳しい。