『物質と記憶』(第13回)

ベルクソン物質と記憶』の第二章を読み終えた。軽いハイが訪れた。
この本は音楽の様式で構成されているのではないか。全四楽章の交響曲
冒頭に三つの仮説(「記憶力の二つの形態」「再認一般について。記憶心象と運動」「記憶から運動への漸次的推移、再認と注意」)を提示し、順次この見取り図にそって叙述を進めていく第二章はさしずめ組曲か。
いや、三つの仮説が微妙な言い換えもしくは漸次的深化を通じて運動[第一章]から記憶[第三章]への移りゆき(135頁)を段階的に進行させていると見れば変奏曲か。


そんな連想がはたらいたのは、このところにわかに「音楽の秘密」への関心を高めているからということもあるが、それよりもなによりも第二章の後半の叙述のそこかしこで音楽の比喩が頻繁に用いられているからだ。
ここで主題的に論じられているのが「聴覚の印象」(125頁)であり「語の聴覚的記憶」(144頁)であり「精神的聴力」(147頁)であるというのだから、それも当然のことなのかもしれない。
いま前後のつながりを無視して言葉だけを拾うと、「前奏曲」(133頁)「ある主旋律の個々の音調」(135頁)「巨大な鍵盤」「無数の音符」(146頁)「無数の弦」(147頁)「内的鍵盤」(148頁)「序曲」(149頁)といったぐあいである。
そうした表面的なことだけでなくて、たとえば「反省的知覚は直線ではなくて閉じた回路である」云々の議論のところで、対象Oの上方に知覚がかたちづくる複数の円環(伸縮自在な記憶力はそこにはいりこむ)と対象Oの下方(背後)に潜在的記憶がかたちづくる複数の円環の図(121頁)が出てくるが、これなど倍音と残響の効果に彩られた音楽体験そのものを図解したものなのではないかと思う。
あるいは、「それは空虚な器であり、その形によって、流れ込む液体の向かっていく形を決定するのだ」(139頁)と言われる「運動的図式」とは、音楽(液体=記憶心像としての聴覚的イマージュ)を聴き取るときの身体の構えのことなのではないかと思う。


とりわけ興味深いのが、聴覚的知覚(印象)と聴覚的イマージュ(記憶心像)と観念(「記憶の奥底からよび起こされる純粋記憶」143頁)という「三つの項」(140頁)をめぐる議論である。
聴覚体験とりわけ「言語的イマージュという特殊なイマージュ」(148頁)をめぐる「純粋な経験」(140頁)について、世の人は一般に「知覚⇒記憶⇒観念」という進行を想定するがこれは間違っている。

すでにのべたように[133-134頁]、私たちは観念から出発し、運動的図式にはまり込みながら聞こえる音に重なっていく力をもつ聴覚的記憶心像へと、その観念を発展させる。そこには、観念の雲が判明な聴覚的イマージュへと凝縮していき、聴覚的イマージュはなお流動的であるにしても、ついには物質的に知覚される音響と癒着して固まろうとする連続的な進行がある。(139頁)

音楽とは純粋記憶(観念)である。いや、『物質と記憶』そのものが音楽のことを論じている。
だとすると、音楽とは生体の活動そのものである。
音楽とは、ジェスパー・ホフマイヤーが『生命記号論』で言うところの記号過程である。
音楽とは、また「物語の論理」である。
筆が上滑りしているのは承知の上で、もう一言書いておく。
ベルクソンの「三つの項」をホフマイヤーが引用する「パースの一般的な記号の三項関係」にあてはめるとどうなるか。
「記号を表すもの=観念,その対象=知覚,記号の解読者=記憶」と「記号を表すもの=記憶,その対象=知覚,記号の解読者=観念」のいずれかなのだろうか。


     ※
前後の脈絡は省くが、『生命記号論』に「物語の論理」(215頁)という言葉がでてくる。
これを読んだとき、物語(の論理)とは音楽のことを言っているのではないかと考えた。
物語とは音楽のことである。音楽とは記号過程である。
これだけだと何を言いたいのかまるで判らない。
実際、閃いた(というほどのことかどうか)のはもう十日も前のことなので、当の本人にとっても何のことやら曖昧模糊・意味不明になっている。
同時に、物語=音楽=意識といった連想(たぶん木村敏がしばしばとりあげる合奏の比喩の影響)も働いていたように記憶している。
臨床とは輪唱であるといった使い道のない命題(たぶん森岡正芳『うつし 臨床の詩学』の影響)も浮かんでいたのだが、それも今となっては不分明・不鮮明だ。
幸い(というほどのことかどうか)簡単なメモを残していたので、それを頼りに『生命記号論』の関連箇所から素材を抜きだしておく。
いずれも比喩にすぎないと言ってしまえばそれまでのことだが。


◎指揮者のいないマタイ受難曲──あるいは発生は発声である
《本書の初めの方で、私はDNAの暗号を料理の本に書かれたレシピにたとえた。だが、もっと適切な比喩は大編成の合唱曲の譜面に見ることができる。胚発生は実際、同時に遺伝子を読み上げる、多数の「声」によって遂行される。ここの発声を互いに調整し、全体を合唱の形に統一させるのがこの発生過程である。そうであるからこそ、遺伝子の解釈に荘重さが現れて来る。
 胚発生では、個々の組織は正確に調律されており、組織間の統合は絶妙な協調効果によってもたらされる。要するに、個体発生過程において、指揮者に当たるものは見つからない。個々の「歌手」あるいは「演奏家」は組織ごとに、私たちがまだおぼろげにしか分かっていない相互伝達過程を通して、その全体調整を行う。いずれにしろ、ゲノム(遺伝物質の総体)はただの譜面にすぎず、どうひいき目に見ても指揮者にたとえられはしない。いずれにせよ、それは指をぱちんとならしただけで全てが調整されるようにはなっていない。聖マタイの情熱(Saint Matthew Passion)の合唱演奏の場面を思い出していただきたい。》(76-77頁)


◎意識は物語である・意識は記号過程である
《私の示唆するものは、脳のモジュールと身体の間に私たちの身体の機能を一秒ごとに面倒を見ている記号過程のループと全く同じものが、意識的な統一の中にも入り込み、私たちの環世界の断片を意識に換える際の選択過程を担っているということだ。(略)意識の一定の流れを作り出すことで、あるいは身体が私たちの環世界を解釈すると言うことによって、私は当然、身体は一つの群れ集まった実体、記号過程を行う身体‐脳システムの全体であると考えている。私たちが私たちの身体で考えているという事実は、意識(そして言語)は物語でなければならないことを意味する。肉体の活動、あるいはそれと等価な基本行動が、私たちの知性や意識の源泉なのである。
 そこで私は意識を純粋に記号過程による関係として見ることを提案する。意識とは身体の実存的環世界を、肉体が空間的物語的に解釈したものである。
 しかし、もし意識をこのように想像上の物語として精神空間の内に配され、そこで意味のある繋がりが為され、絶え間ない自己言及によって構成されるものであると見なすなら、この意識はどうやって私たちの思考や行動に影響を与えることができるのだろうか。答えは簡単だ。意識はいわばオン、オフの切り替えをするスイッチとして働くのだ。》(195-196頁)


◎意識のキーボード・神経ペプチドの音色
《内なる記号圏におけるコミュニケーションの手段のうち最も興味深いものは…神経ペプチドである。人間の知性が集団からもたらされるとするこの議論の結論を述べるうえでの例として、神経ペプチドについてみていこうと思う。簡単に言うと、神経ペプチドは小さなシグナル分子で、それと結合するレセプターを持った細胞によって認識されるが、この種のレセプターは身体‐脳全体を通じてたくさん存在し、それが脳と免疫系を統合するインフォメーション伝達のネットワーク、精神身体ネットワークの基礎を作る。
 もし私たちがここで、脳が意識のキーボードの旋律を常に監視し、身体や脳の特定の腺や部分にメッセージとして伝えられるオン/オフの指令のパターンを解釈していると想像すると、神経ペプチドはこれらの指令を履行するためにデザインされた多くの楽器のうちの一つと見ることができる。例えばこれは、体内の特定の部分における、神経ペプチドそのものの量(ボリューム)とそれとは異なった種類の神経ペプチドの種間関係に変更をもたらすことになる。 …アメリカの生化学者ルフはこの身体の神経ペプチドへの備えに対し、「神経ペプチドの音色」という表現を使い、ある考えを展開した。神経ペプチドは個人の気分や感情的な状態を決定するのに部分的な役割を持つと考えられているので、生化学的なレベルにおける特定の精神状態は身体‐脳における特定の神経ペプチドの音色に関連していると認めうる、というのがその骨子である。
 このことから意識、神経系、神経ペプチドの音色の間の関係は…[「記号を表すもの=意識」「その対象=神経ペプチドの音色」「記号の解読者=神経系」という]…三項関係を伴う記号として描くことができる。》(201-202頁)