『神と自然の科学史』

ほとんどの新書、いくつかの文庫、選書、叢書の新刊は毎月書店で実物をチェックしている。
たとえば三浦展下流社会』など立ち読みで即買と判断したものはやはりその場で買っておかないと、いつの間にかベストセラーになって内容がすっかり世に知れ渡りとうに読んだ気になってしまっていまさら買い求めるのが億劫になる。
購入したとしても諸般の事情で後回しにしているうち自腹を切った勢いというか元を取るという意欲が失せて、読めばきっとハマルと判っているのにどういうわけだかバリアが高くなってしまうものもある。
最近では講談社選書メチエ今村仁司『抗争する人間』(3月)や斎藤慶典『レヴィナス』(6月)などが恨めしげに本箱に並んでいる。
この選書メチエは毎月新刊をチェックしているものの筆頭格。
中沢新一の「カイエ・ソバージュ」をはじめ名作が目白押しで、昨年読んだ實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学』などあまりにベタなタイトルに一瞬怯んだものの、メチエの後光の後押しをうけて資料を買い込むつもりで入手したらこれが大変なヒットだった。
川崎謙『神と自然の科学史』も一度は見送ったものの、もしかしたら實川本の再来かと突然ひらめき購入し、ざっと全体を眺め勘所と思われる箇所を摘み読みしてみたら予想通り、いやそれ以上の刺激・感銘が期待できそうな本だった。
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著者の専攻は教育学部の理科教育講座で、本書執筆の動機は、西欧自然科学と「日本自然科学」(著者がそういう言葉を使っているわけではない)とを歴史的眺望のうちに置いて比較し、これら異文化相互の会話を促すことにある。
(比較のためには共通の視点が必要だが、著者が依って立つのは文化現象を言語に還元するという意味での「構造主義」、とりわけ丸山圭三郎言語哲学である。)

それ自体は無意味な世界である「素材の世界」に意味や秩序をもたらすもの、逆にいうと意味や秩序をもったもの(西欧における「ネイチャー」や日本における「自然」)として世界を認識させる思考の枠組みが「ロゴス」(西欧)であり「諸法実相」(日本)である。
ロゴスは「世界[ネイチャー]は数学的に記述されなければならない」(198頁)と要請する。
これに対して諸法実相は、とりわけ「実相[イデア界]は諸法[現象界・物質界]なり」とする道元以来の枠組みのもとでは、自然は「人智ノ察慮・量測スルコト能ハザル」(安藤昌益『刊本・自然真営道』に寄せた門弟の序:114頁)ものとされる。

ロゴスの枠組みのもとにある西欧自然科学を著者は次のように定義する(87頁)。

西欧自然科学とは、創造主である“Logos”がその心の内なる観念(“Logos”によってのみ認識可能なイデア)によって創造し、本質的にはイデア(数=“Logos”)によって秩序付けられた万物を、理性である“Logos”によってのみ認識されるイデアとして表現する知的営み。

これに対応する「日本自然科学」の定義は、本書を一瞥したかぎり明示には与えられていない。
日本語を母語とする自然科学的思考の歴史とその現代における(再生もしくは制作の)可能性。
著者の意図はそこまで及んでいないように思える。
これらのことは今後の熟読を通じて確認し、必要に応じて考察してみることにしよう。
とりわけ関心をひくのが、西欧自然科学のもとでの実験(創造主の秘密の直知=ひらめき)と諸法実相の枠組みのもとでの実験(自分で実際にやってみる)との相違だ。