『チェーホフの戦争』

宮沢章夫チェーホフの戦争』読了。
書名に惹かれて衝動買いをして、それほど期待もしないで読み始めたらたちまち引き込まれ、とうとう最後まで一息に読み切ってしまった。
息継ぎを忘れたわけではないが、気分としてはチェーホフの四大劇を幕間の休憩もなしに一気に観終えてようやく一息ついた感じ。
思わぬ拾い物だった。
拾い物どころか、これは画期的に面白い名著だ。

どこが画期的かというと、まず『桜の園』=バブル経済下の「不動産の劇」、『かもめ』=高度消費社会とフェミニズムの文脈で読まれるべき「女優という生き方をめぐる劇」、『ワーニャ伯父さん』=リストラ中年男性の鬱を若い女性の視点から身体化した「憂鬱の劇」、『三人姉妹』=仄暗い未来の予兆に苛まれた「戦争についての劇」と、資本主義経済が極まった1980年代後半から「戦争前夜」ともいえる現代にいたるここ20年の日本の社会状況、とりわけ経済と政治の趨勢をたくみに重ね合わせながら、チェーホフの戯曲がもつ「現在的な読みの可能性」(183頁)を鮮やかに引き出してみせた宮沢章夫の手腕が素晴らしい。

(本の腰巻きにはこう書いてある。
「「資本」をめぐる四つの悲しい喜劇」。
「土地、女性、自殺、戦争……没後百年を経て、ますます生々しさをますチェーホフの4大戯曲を、気鋭の劇作家/演出家が精緻に読みとき、現代の〈戦争〉にそなえるための構えを模索する傑作評論」。)

その手腕が存分に味わえる本書の読み所は、「ある目的、つまり「あるせりふ」を言わせるための伏線を緻密に組み立てるきわめて構築的な作家である」(202頁)チェーホフの戯曲に対して、かのエッセイ群でいかんなく示された宮沢章夫の細部(と細部の関係)への、いささか狂気じみたこだわりがものの見事にフィットしているところだろう。
「人々のやりとりのあいだに、ひっそり埋め込まれている」(207頁)不可解なせりふへの注視をはじめ、人物の登場や退場の仕方、衣装や年齢や場所についての指示、舞台の外から聞こえる音、「間」、「舞台空虚」等々のさりげなく記されたト書きへの注目。
演出家ならではの着眼点といいたいところだが、そうではない。
それらはチェーホフの場合「わざわざ」書き込まれている。
「こうした細部にこそ見落とすことのできない劇の核心があるとも読める」(202頁)。
だからこそ細部を読み解かないかぎり、戯曲を戯曲として「読解」するという本書のねらいは果たされない。
すなわち、劇は動かない。
チェーホフがその戯曲のうちにしかけた運動性のようなものが見えてこないのである。


しかしこの本の本当の面白さは、そうした戯曲「読解」の趣向や手法や技倆だけにあるのではない。
いま「本当の面白さ」と書いたが、面白さにホンモノとニセモノがあるわけではない。
AかBか、否定の否定は肯定であるといった単純な論理でチェーホフの戯曲や宮沢章夫の文章を読むほど愚かしいことはない。
「本当の面白さ」は、ホンモノとニセモノの区分のもう一つ外側にある。
チェーホフの作品は上演当時「静劇」と呼ばれた。
舞台の上では何事も起こらず、舞台の外で事件は起こる。
宮沢章夫は本書で、「チェーホフの劇作法として特徴的な、「舞台上に起こっている出来事と、その外部で発生している出来事」との関わり」(46-47頁)について考えた。
そして、陰鬱で悲劇的な『桜の園』や『かもめ』にきっぱりと記された「喜劇、四幕」の意味について考えた。
その「読解」の結果、宮沢章夫が見出したものは、チェーホフ的な「醒めた目」(55頁)であり、「メタレベルで演劇を見ているチェーホフの視線」(65頁)であり、「空虚を表現として出現させるチェーホフ特有のイロニーに充ちた技法」(198頁)であった。
たとえば『三人姉妹』第一幕ト書きで「円柱のならんだ客間。柱の向うに大広間が見える」と指示された舞台空間をめぐって、宮沢章夫はこう書いている。

舞台に二つの空間が設定されている。「大広間」とは隔離された場所(=客間)を設けることによって、たとえばイリーナとトゥーゼンバフだけが残ってマーシャについて語るように、「客間」に二人の姿だけが残され、ほかの者らに会話を聞かれないようにするのは、ごく単純な技法として読める。けれど、空間そのものが表現としてあるとも想像できるのは、なにしろ、「広間では一同テーブルにつく。客間には人影がない」と書かれたとき、「人影がない」というその空虚さが、まず一番に観客の目にも届くものだからだ。空虚を通して「円柱」の向こうで演じられる劇を見ることになる。同時に、舞台に広がるのは、先にも書いたような「朗らかさ」である。「朗らかさ」を裏付ける照明の光は、舞台を覆うように降り注ぐと想像できるが、空虚を表現として出現させるチェーホフ特有のイロニーに充ちた技法によって、幾重にも光は屈折し、登場人物たちをまた異なる姿として出現させるだろう。(197-198頁)

「メタレベルで演劇を見ている」のは作家チェーホフであり、同時に批評家宮沢章夫である。
その「メタレベル」においてこそ、桜の木に斧を打ち込む「遠い音」がバブル経済の槌音と響き合い、妊娠した女優に向かい「女優だったらその窓から飛び降りてみろ」と言い放つ演出家の言葉にこめられた演劇集団の生‐政治性が浮かび上がり、47歳のワーニャの鬱が同年齢の宮沢章夫や石破防衛庁長官イラクへの自衛隊派遣当時)の身体性(の欠如)と通じあい、未来の戦争の予兆に苛まれた「作家の鋭利な知覚」(230頁)がはたらく。
宮沢章夫が本書で達成したアクロバティックな、それでいて身体の運動性にしっかりと寄りそった「読解」は、来るべき「批評」の一つのかたちを示している。


     ※
上に書いたことと直接の関係はないが、以下に、本書を読むために再読したチェーホフの四大戯曲から、印象に残ったせりふを一つずつ抜き書きしておく。

「時どき人間は、歩きながら眠ることがある。」(『かもめ』第三幕でのトリゴーリンのせりふ,新潮文庫『かもめ・ワーニャ伯父さん』68頁)
「この年まで僕は、生活を味わったことがない、生活をね!」(『ワーニャ伯父さん』第三幕でのワーニャのせりふ,同171頁)
「ことによるとおれは、人間じゃなくって、ただこうして手も、足も、頭もあるような、ふりをしているだけかも知れん。ひょっとするとおれというものは、まるっきり存[あ]りゃしないで、ただ自分が、歩いたり食ったり寝たりしているような、気がするだけかも知れん。」(『三人姉妹』第三幕でのチェブトイキンのせりふ,新潮文庫桜の園・三人姉妹』192-193頁)
「一生が過ぎてしまった、まるで生きた覚えがないくらいだ。」(『桜の園』幕切れでのフィールスのせりふ,同111頁)