『美と宗教の発見』第二部

梅原猛『美と宗教の発見』の第一部末尾に次の文章が出てきて、歌論を中心に据えながら日本の「感情の論理」(桑原武夫:209頁)や「感情の配置」(304頁)を論じる第二部へのつなぎの役割を果たしている。
かつ第三部で主題的にあつかわれる日本の宗教心性(清き自然に対する崇拝)をめぐる問題への伏線が張られている。

 先に私は、自然を心の象徴として見るのが日本の詩歌の特徴であるといった。しかし、その象徴というのは、フランス象徴詩の象徴という意味と同じなのであろうか。心は果たしてとらえやすいものであろうか、それともとらえがたいものであろうか。それは比喩というべきであろうか、それとも象徴というべきであろうか。私はその問いを疑問のままにのこしてきた。この疑問はもっと深く問われるべきであろうが、今は次のように考えてみたい。日本の詩でいう象徴という意味は、フランス象徴詩の象徴という意味と違うのではなかろうか。日本の場合、象徴されるべき心も、象徴すべき自然も、本来は同じものであるという確信が、その世界観の背後に存在していないであろうか。われわれ人間も、自然そのものも、同じ生命の現われである。それ故、人間の心がどんなに複雑になろうとも、それは必ず自然の姿によって表わされるであろうという確信が、その背後にひそんでいるのではなかろうか。(160-161頁)

文中「それは比喩というべきであろうか、それとも象徴というべきであろうか」とある点については、引用箇所より少し先のところで「比喩の場合、比喩さるべきものは明確に把握出来うるものであるにたいし、象徴の場合は、象徴さるべきものは明確に把握出来ず、したがってそれは象徴によってしか暗示出来ないものである」(143頁)と説明される。
ここで私が注目したいのは、「日本の場合、象徴されるべき心も、象徴すべき自然も、本来は同じものであるという確信が、その世界観の背後に存在していないであろうか」という部分である。
梅原猛は『美と宗教の発見』第二部に収録された「壬生忠岑「和歌体十種」について」で、とりわけ「余情体」「写思体」「高情体」と名づけられた歌体(歌の風体、様式)に即して、このような「世界観」(和歌にあらわれた感情の論理)のありようを詳細に分析している。

実は『美と宗教の発見』を入手して最初に読んだのが「美の問題」をあつかった第二部だった。
とりわけ「壬生忠岑「和歌体十種」について」とこれに続く「世阿弥の芸術論」は、それこそこの二つの論考を読むために本書を購入したようなものだから、むさぼるように読み、鮮烈かつ深甚な知的感銘と感覚的・感情的刺激を受けた。
「この時期[14−15世紀]の歌論、連歌論、その他多くの芸道論の類には、日本におけるひろい意味での哲学的制作に今後活用されるはずの多くの精神史的リソースが眠っているだろう」。
坂部恵(『モデルニテ・バロック』)のこの一文から始まった私の中世歌論への関心、それをより一般化すれば、歌と神、身体と貨幣といった問題系を中世以降の日本の都市と村落の芸能と経済の歴史のうちに探索するといった大袈裟なものになるのだが、それはともかく、そうした関心からみて、これこそ私が読みたかった論考だと思った。
その興奮の余韻はいまでも静かにつづいている。
しかし、なにしろ第二部を読み終えたのはかれこれ一月ちかく前のことだから、梅原猛の議論の細部は私の頭の中でほとんど雲散霧消もしくは瓦解し、ただ空虚な輪郭と中身の残り香のようなものしか掬うことができない。
じっくりと四股を踏んでいるうちに化粧回しが解けてしまった。
こうして大仰で空疎な言葉ばかり書き連ねているのは、あの時私の頭の中にひらけていた見通しのラフスケッチでも残しておきたいという思いからだが、その作業はこことは違う場で行うべきことだろう。
というわけで、いまあらためて梅原猛の論考を読み返している。