『五感で味わうフランス文学』その他

図書館で借りた本は気楽に読めていい。
摘み読みとか拾い読み、斜め読み、一点読みに部分読み、目次読み、速読、はては継続、継続の積ん読という高度な(そして傍迷惑な)戦術まで、自在に駆使することができる。
これに対して自腹を切って買った本は、投下資本に見合うなにかを回収せずにおくものかという妙な思い入れがこもっていて、つねに恨めしげな圧迫感をもってにじり寄ってくるから鬱陶しい。
長篇小説など買った日には、いつも時間のやりくりに往生する。
このところ私の部屋の机の上には、行きつけの図書館から借りてきた数冊のエッセイ本の類が所狭しとちらばっている。
就眠前のひとときなど、とっかえひっかえ手にしてはまとまった箇所を眺めて過ごし、その夜の夢の素材を蒐集している。


そのうちの一冊、野崎歓氏の『五感で味わうフランス文学』に「夢の海鮮料理」というマンディアルグ論が収められている。
そこに「マンディアルグの美食家たち[『大理石』の主人公たち]は、「何かどろどろしたもの」を前にひたすら女性的な、受け身な存在と化し、刺激に満ちた異物をわくわくと体内に受け入れ、悦びにむせぶ。そして料理との交わりの結果、夢が胚胎されるのだ」と書いてある。
これと関連して、「ある人々にとっては眠りはもう一つの人生であり、一種の長い小説のようなものである」と書いたブリア=サヴァランの『美味礼賛』に、「食餌は夢を規定する」との立場から各種食物と夢の因果関係を説明したくだりがあることが紹介されるのである。
野崎氏のいう「何かどろどろしたもの」とは、私の場合、就眠前に無造作に読み散らかした不連続な文章の切れ端が原形をとどめず渾然一体となった様そのものだ。
さてこの小論は、『大理石』『燠火』『城の中のイギリス人』『ボマルツォの怪物』『満潮』『海の百合』といったかつて私も愛読した作品群を、そこに鏤められた形象や事物やイメージのエッセンスを生の触感ごとあまさず手際よく紹介し、そこから海と女、海産物趣味とエロティシズムとの「間然とするところのない相互浸透」というマンディアルグの最初期からのモチーフを抽出している。
そのうえで、「マンディアルグ的な料理の夢、夢の料理はことごとく、娘たちの体を循環する海のエキスへの羨望からあふれ出たものではないだろうか」と結ぶ。
まことに陶然とさせられる筆の運びで、その文章自体が夢見の素材として良質極まりない。


『五感で味わうフランス文学』は白水社の雑誌「ふらんす」に連載されたものが元になっている(ただし、マンディアルグ論は『ユリイカ』)。
同じく「ふらんす」連載稿をまとめたのが堀江敏幸氏の『郊外へ』で、これもまたまことに香しい散文集である。
なお、同時並行的に眺め暮らしている他の書物たちの名をあげておくと、『おぱらばん』『回送電車』『本の音』の堀江本と丸谷才一『ゴシップ的日本語論』。