神話論理・哥の勉強・その他とりとめのないこと

 前回とりとめなく書いたこと(鈴木一誌の文章の「メカニック」な感触のこと、『雪国』の島村が舞踊評論家だったこと)との関連で、いや関連しないけれど、もう少しとりとめのないことを書いておく。


クロード・レヴィ=ストロース神話論理Ⅱ 蜜から灰へ』(早水洋太郎訳)を買った。
 去年の5月から6月にかけて、『神話論理Ⅰ 生のものと火を通したもの』(同)をヒッチコックトリュフォー『定本 映画術』と同時並行的に読んでいた。結局、「序曲Ⅰ」と「序曲Ⅱ」を読んだだけで中断した。でも、この書物だけは全巻読んでおきたいと思っている。ただ読むだけでいいと思っている。読まずには死ねない。そういう書物だと思っている。


川端康成の『雪国』と『美しい日本の私』を読み終え、つづいて『みずうみ』を読み始めた。
 新潮文庫の解説(中村真一郎)に、この作品は「意識の流れ」の描写の美しさを感じさせる、主人公の意識を舞台として多くの女性の思い出を混ぜ合わせている、その混ぜ合わせ方は「日本的超現実主義──中世の連歌における、「匂い付け」と呼ばれるような、不思議に微妙な連想作用」によって行なわれている、この小説の構成・映像・筋立て・後味は夢に似ている、云々と書いてあった。面白い。


岩波文庫夏目漱石の『文学論』上下の刊行が始まった。
 できるかどうか、意味があるかどうかは知らないが、川端康成の小説群を夏目漱石の文学論を使って読解してみようと目論んでいる。どこからそんな発想が生まれたのか自分でもよくわからない。準備に一年近くかかるのではないかと思う。


◎『石川淳評論選』(菅野照正編,ちくま文庫)と白川静詩経 中国の古代歌謡』(中公文庫)をセットで買った。
 昔、石川淳の『夷斎筆談』(富山房百科文庫)を毎日筆写していたことがあった。写経のつもりだった。『夷齋小識』と金子光晴『マレー蘭印紀行』(ともに中公文庫)の二冊はどちらも薄いもので、急な外出で選ぶ暇のないとき安心して携帯できる本としていつも手の届くところに常備している。あまり意識したことはなかったけれど、私は石川淳のファンだった。
 『評論選』には「歌仙」とか「和歌押韻」とか「本居宣長」が収録されている。『詩経』と一緒に読むことで、そして図書館で借りてきた小松英雄著『みそひと文字の抒情詩──古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』等々を併読することで、哥の勉強がはかどるのではないかと思った。


◎その哥の勉強では、尼ヶ崎彬著『花鳥の使』の再読が遅々として進まず、今日ようやく定家の章の途中まできた。
 いま「貫之現象学と定家論理学」というアイデアを育んでいる。というか、でっちあげようとしている。これは永井均著『西田幾多郎』に出てきた「西田現象学」と「西田論理学」に触発されたもので、まだ中身は混沌としている。
 定家十体のうち「有心体」でいう「心」とは詞の意味としての心(哥に詠まれた心)ではなく、作者の心(作者の心中の思い)のことである。また「作者の心」とは貫之の歌論にいう心、すなわち歌人が実体験している心情ではなく、俊成の歌論にいう心、すなわち詩的主観のことである。それは和歌の産出過程(詠作時)においてのみ生じる虚構の、しかし動的な生命をもつ「詠みつつある心」であって、言語化以前の心的状態を指す。(以上は『花鳥の使』の大雑把な要約。)
 物と心の界面にかかわる貫之歌論の「心」とは実は〈心〉(永井均の表記法)のことで、それは物への付託を通じて「ことのは」に生長する。その「ことのは」(詞)と心の関係をみすえる俊成歌論の「心」は自律的な言語世界に生息するペルソナのことで、それは死者とのコミュニケーション回路をひらく。そのペルソナ(詠みつつある心)と物のあわいに屹立する定家歌論の「心」は言語化以前の「冷たい物質性」のうちに立ち上がる。(以上は『花鳥の使』を使った勝手な議論。)
 かなり言葉が舞い上がっていて自分でもとうてい信用できないが、だいたいそんな感じで考えていきたいと思っている。


◎これだけは「書評」のかたちで読書体験の実質を記録しておきたいと思う本がいくつかある。
 加藤幹郎著『『ブレードランナー』論序説──映画学特別講義』と保坂和志著『小説の誕生』と篠原資明著『ベルクソン──〈あいだ〉の哲学の視点から』と渡仲幸利著『新しいデカルト』の四冊。
 そのうち一冊、渡仲本に「決着」をつけようと思い、鉛筆でマークをつけた箇所をさくさくと読み始めたら止まらなくなった。この本はやっぱり名著だ。人生の何たるかや日々の生き方や本の読み方、はては哥の勉強の仕方まで教えてくれる本だ。たとえば「デカルト宣長」という文章の前半に出てくる次の文章。


《おしゃべりなど通用せず、じっさいに取りかかるほかないことがある。つべこべ言わずに、はじめなければならない。
 なのにわたしたちは、暇がないとか、才能がないとか、ごちゃごちゃ悩む。うまいやり方がないものか、とえらそうなことをいっては、なかなか実行しない。
 健康のために運動をしなければ、と考えながら、いっこうにはじめないし、文章を書きたいと思っているのに、ペンすらにぎらずに一日をやりすごしてしまうし、あこがれの文学全集を読み終わらないどころか、読みはじめようともしない。そのくせ、あれもやりたい、これもやりたい、休みがとれたらなあ、などと終始つべこべ考えている。
 デカルトは、そんなしりの重いわたしが読んだ数少ない哲学者の一人だが、かれの著作のさわやかさは、宣長同様、かれが不言実行の人であることから来ていると見て、まちがいないと思う。》(渡仲幸利『新しいデカルト』124頁)