信仰をもつ人間の枕頭の書、そして重力と舞踏

 鈴木一誌は、『レヴィ=ストロース神話論理』の森へ』に収められた「重力の行方──レヴィ=ストロースからの発想」を、こう書き始めている。「しごとを終えたあと、邦訳されたクロード・レヴィ=ストロースの著作を読むのが、二か月ほどのならいとなった。」
 その模倣というわけではないけれども、ここ七か月ほど、鈴木一誌の『画面の誕生』をほぼ毎日一節ずつ、仕事と仕事の合間、たいがいは昼食後の午睡の前に、読み進めるのをならいとしてきた。


《…日課のようにその著述を読むのはふしぎな体験だった。これほどレヴィ=ストロースの文章は淡々としたものだったのか。(略)だが、魅力がないわけではけっしてなく、叙述の平らかさが飽きのこない読書体験をもたらし、信仰をもつ人間の枕頭の書とはこういうものかもしれない、と思わせる習慣性を到来させたのだが、それにしても、行の意味は読む端から砂粒のようにこぼれ去っていく。》(「重力の行方」)


 この文中の固有名を「鈴木一誌」に置き換えると、それはそのまま、私の読書体験の叙述になる。また、次の文でいわれていることは、優れたレヴィ=ストース論であると同時に、鈴木一誌の書き物について述べられた、おそらく最高の批評であると思われる。


《レヴィ=ストースを読むことは、書き手の熱意や使命感によって問題が設定され、疑問がつぎつぎに繰りだされていき、記述を読み進めることが書き手と読者の一体化であると錯覚させるような、線型の読書体験ではない。レヴィ=ストロースは、読書の少し遅れた背後からやってくる。(略)…このとき読み手の眼前にせり上がってくるのは、著者の「対比し、示す」、なかばメカニックな手つきだろう。レヴィ=ストロースの著作は、作者の〈器用しごと〉を見せるドキュメンタリーと見える。彼の手を経た神話の言説は、粒がととのえられ、ユニット化し、移動可能な感を深めるぶん、粒どうしの粘着性は弱まる。(略)…読者からすれば、レヴィ=ストロースの文章は〈遠さ〉としてあらわれる…。》(「重力の行方」)


 とりわけ「メカニックな手つき」という評言は、『画面の誕生』巻末の「ポスト・スクリプト」で明かされた、「地下室でモニタに向かい原稿を書いている」鈴木一誌の「器用しごと」の成果が読者に与える感触を、見事にいいあてている。


《行番号が出るワープロ・ソフトまたはエディタをつかって、気がついたことを、一行一項目で、ことがらの大小を無視して書き連ねていく。その一項目が、百字程度の記述になっていく。文章に織りこめていない項目が、いつも原稿の末尾にぶら下がっている。一行の字詰めを四○字に設定しておくと、一○行書けば、四○○字原稿用紙一枚だ。五行くらいで段落の変更を意識しはじめ、原稿用紙五枚で節をあらためる、こう、書くことのなかに「標準」を見つけられないか、といろいろと実験をしてしまうのも悪い癖だ。》(『画面の誕生』)


 ショット(鮮やかな警句としての断言)とシークエンス(一つ一つ几帳面にタイトルを付された節)の正確な編集(デザイン)を通じて、(「ポスト・スクリプト」で使われた言葉や語彙を借用するならば)、「映画や漫画、写真集などの表現を受けとるという作品の体験」の「痕跡」(=「時間を失った点としてわたしの身体に残る」もの)を「原寸で描写」し、「傑作や感動と言ってしまうことで洩れおちてしまうもの」を「記録」(=「記譜(ノーテーション)」)すること。
 この、鈴木一誌自身による鈴木一誌の書き物についての自己規定は、「重力の行方」で、「レヴィ=ストロースの文章はドキュメンタリーだと言える」──「ドキュメンタリーは、地球上のあらゆる生きものが甘受せざえうをえない重力を写すものなのではないか。…重力とともに生きるほかない存在として生きるものを描きだす、これがドキュメンタリーを定義する最低限の基準だと思える」──と書かれていることと、響き合っている。


レヴィ=ストロースは、…神話の根を切り、ショットやシークエンスへと単位化していく。このとき神話というテクストは決定的に重力をうばわれるのだが、ショットやシークエンスに語らせながら構造を出現させるとき、構造は、土地に住むひとびとの無意識をなまなましく貫く。これを構造という運動と呼んでよいだろう。
「彼らは生きている」と読むものに思わせるこの事情を、モーリス・メルロ=ポンティは「客観的分析を生きられているものに結びつけること、おそらくはこれこそが人類学のもっとも固有な仕事なのであ」ると書く〔「モースからクロード・レヴィ=ストロースへ」,『シーニュⅠ』〕。分析が最終的に「生きられているもの」に沈降していく人類学的な事態が、構造が担っている「鈍重な意味」〔同〕なのだろう。「鈍重な異味」において、レヴィ=ストロースの著作はドキュメンタリーである。レヴィ=ストロースの文章があつかう神話の内部でも、重力は、ひとびとにのしかかると同時に無化される。


全四巻の『神話論理』で、私は南北アメリカ大陸の神話群において下界の民と上界の民とのあいだの宇宙的規模の戦いは、料理の火をめぐって繰り広げられることを示した。〔『やきもち焼きの土器づくり』「序」〕


 下界はひとびとの住まう重力の世界で、上界は神的空間だと理解してよいだろう。重力のある地平と無重力の場の往還、つまりは「天と地のコミュニケーション」から神話の駆動力が生みだされている。》(「重力の行方」)


 「重力の行方」を収録した『重力のデザイン──本から写真へ』に、次の記述がある。


《ひとは、重力に抗して立ちあがるのだから、生きることは垂直という感覚を維持しつづけることだ、と言える。体内に天地方向の基準線が生まれ、その不可逆のタテ感覚が鏡像を〔左右を逆転させるにもかかわらず〕天地には逆転させない…。》(「鏡と月──フレデリック・ワイズマンの重力」,『重力のデザイン』128頁)


 これを読んで、私は舞踏を、そして川端康成の『雪国』を、あの悲しいほど美しい声をもった葉子の顔が鏡(車窓)に「映画の二重写し」のように映じているシーンに始まり、上映中のフィルムが発火した繭倉炎上のシーンを経て、「さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった」で終わる『雪国』を連想する。
 その島村は、「ヴァレリィやアラン、それからまたロシア舞踊の花やかだった頃のフランス文人達の舞踊論」を翻訳し、また、洋書や写真、ポスターやプログラムを頼りに西洋の舞踊を夢想し、紹介文を書いているのだった。


パイドロス 驚嘆すべきソクラテスよ、あなたの言葉がどれほど的を射ているか、ほらご覧なさい!…… 脈動する女をご覧なさい! まるで舞踏が彼女の軀から炎となって吹き出してくるかのようだ!
 ソクラテス おお、〈炎〉よ!……
 ──あの娘はひょっとして愚か者なのか?……
 おお〈炎〉よ!……
 ──どんな迷信、どんな戯言が彼女のふだんの魂をかたちづくっているのか、知れたものではない。
 それでもしかし、おお〈炎〉よ!…… 生気ある神々しい物体!……
 だが、炎とはいったい何かね、わが友よ、瞬間それ自体でないとするならば? ──一瞬そのものの中にある気違い染みた、陽気な、並外れたもの!…… 炎とは、大地と天空の間にあるこの瞬間の行為だ。おお、わが友よ、重々しい状態から精妙な状態へと移行するすべてのものは、火と光の瞬間を通過する……
 そして、炎とはまた、もっとも高貴な破壊の、捉えがたい、誇り高い形態のことではないか?》(ポール・バレリー「魂と舞踏」(松浦寿輝訳),渡辺守章編『舞踊評論 ゴーチェ/マラルメヴァレリー』228頁)


 とりとめのない「記録」になった。鈴木一誌の文章の「メカニック」な感触を、鈴木一誌よりうまく言葉にすることは、私にはできない。(そういえば、福田和也が『雪国』について、「メタリックといってもいいような突き抜けた力があって」云々と語っていた。)